飯塚毅博士アーカイブ
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DATEV創業者 Dr. セビガーとの交友

飯塚毅博士の生涯の友は、TKCを創業した同じ年(1966年)にドイツで会計人専門の計算センターDATEV(ダテフ社)を立ち上げたセビガー博士だった。1972年に出逢った2人は、深い人間的共感に基づく尊敬と友愛に満ちた関係を30年にわたってはぐくんだ。

セビガー博士との出会い

飯塚毅博士とセビガー博士との出逢いは、1972年に、西ドイツのダテフ社を飯塚毅博士が訪ねたことに始まる。作家・高杉良氏による小説『不撓不屈』(新潮社)のプロローグには、両者の出逢いの模様が、脚色されてはいるが、ほぼ事実に則って描かれている。

「この男はただ者ではない――。

ハインツ・セビガー(Heinz Sebiger)の端正な顔が次第に紅潮してゆく。

セビガーは、遠来の異邦人にさしたる関心を示さず、儀礼的な訪問ぐらいに受けとめていたが、飯塚毅のドイツ語による鋭い質問、核心を衝く発言に、次第に魅き込まれて行った。わけても、飯塚が西ドイツの法律に精通していることに、畏敬の念を覚えずにはいられなかった。

飯塚は、AO(Abgaben Ordnung・ドイツ国税通則法)162条に規定する法的要件をめぐって、同条文の各項目に関し逐一その適法性を問いただした。

爛々と輝く燃えるような飯塚の目と、熱っぼい口調に気圧されて、セビガーは必死に防戦しているような錯覚にとらわれたかもしれない。

飯塚が、電算機会社組織に西ドイツ所得税法第5条付属の施行規定第29条を適用し、米国の1964年制定のRevenue Procedure との関連性を指摘すると、セビガーはただただ感嘆するばかりで、言葉もなかった。

さらに飯塚は、AO162条第2項のEine Leben de Sprache概念規定の問題に踏み込み、フランスのConceil d, Etat 1958 N36330の基準と共通性をもち、日本の旧法人税基本通達337の考え方とも共通している旨を指摘した。

セビガーはなにやらケムに巻かれているような気がした。かれは応接室に隣接する執務室に移動し、書棚から黒革表紙の部厚い条文集を取り出して、ページを繰り、飯塚の指摘が正確なことに仰天した。

席に戻ったセビガーは、整った顔に笑みを浮かべていた。

『ミスターイイヅカのおっしゃるとおりです。わたしは条項までは記憶してませんでした。ミスターイイヅカの博覧強記ぶりに敬意を表します』


DATEV社への最初の訪問(昭和47年1月)
(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』4頁)

セビガーに握手を求められた飯塚は起立して、固く握り返した。

2人の劇的な出会いが実現したのは、昭和47年(1972)1月19日午前9時。場所は、西ドイツのニュルンベルク市パルムガルトナー街6番地にあるDATEV(ダテフ=ドイツ連邦共和国税理士データ処理協会)本部2階の理事長室だ。

飯塚は(株)TKCの創業社長、セビガーはDATEVの創業者で理事長。年齢は53歳と48歳。TKCもDATEVも1966年(昭和41年)に創業され、会計処理のコンピューターセンターを保有し、会計事務所をクライアントとしていることなど類似点が少なくなかった」(『不撓不屈』プロローグ 高杉良著・新潮文庫)

1973年4月、TKC第1回遣欧視察団34名がDATEV社を訪問した。以後定期訪問が行われ、1978年の第6回遣欧視察の際は、西ドイツ大蔵省で飯塚毅博士による講演「日本の財政及び税制の歴史的発展について」が行われた。セビガー博士も、1974年の第1回TKC全国大会に参加以後、ドイツ会計人とともに何度も来日し、両者の相互理解はより深まっていった。

「職業観、政策、個人的問題についての度重なる会話が友好的な結び付きをより深いものとした。飯塚氏が人生におけるすべての重要な事象の根源をどのような明敏さで窮め、その極限に対して、卓越した知識とすべてのドイツ的なるものの尊敬により、彼が導かれているかを垣間見ることにより、私は絶えず繰り返し影響されているのである」(『正規の簿記の諸原則』序文・ハインツ・セビガー)