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追悼座談会〜飯塚毅先生を偲んで〜-5

二念を継ぐな

仁木 私は飯塚毅先生からしょっちゅう叱られておったわけです。どんな会合でも、席次が自由なときは、必ず先生の真っ正面に座っていましたから。

――叱りやすかったんでしょうね(笑)。

仁木 そう。ただし、一度だけ褒めてもらったことがありますよ。奥山素章先生と総務担当の副会長を交代して、全国会理事会等の司会をやり出したときに、飯塚毅先生から「なかなかやるもんだな」と声を掛けられました。「地域会を何十年も取り仕切ってきたんですから、それぐらいのことはできますわ」と答えたら、先生は「うーん」と唸っていました。

宮崎 仁木先生の言うとおりだね。褒められたのは一遍か二遍あればよし。あとはだいたい叱られていましたからね。

「私の話をすると、昭和58年ごろだったと思いますが、『TKC会報』に毎号必死になって書面添付推進の論文を書いていた折に、飯塚毅先生から文章のまずさを指摘されたことがありました。それがあまりにもきつかったので、「飯塚毅先生は天稟の才があるし、そのうえ私とは素養の大きな差異があります」などと申し上げたところ、先生は「よく聞け」と私を見据え、次のように問いました。「私は毎晩、自分でテーマを決め、まず400字詰め原稿用紙10枚で書く。次に5枚に纏める。さらに1枚にする。これを10年間、どんなに酒を飲んだときも、大晦日も元旦も、1日も休むことなく繰り返して文章力を錬磨してきた。君はそのレベルの研鑽を積んだのか」と。私が否と申し上げると、先生は「不断の研鑽努力を積まず、短絡的に人を天才呼ばわりするものではない」と厳しく叱りました。心肝にこたえた思い出です。

そんな私にも褒められたことがあります。平成元年と記憶しますが、書面添付推進委員会で会員の啓蒙のためビデオを作成し、飯塚毅先生にご覧いただきました。しかし「30点」という何とも厳しい評価でした。気を取り直し、森井義之担当小委員長を始め正副委員長全員で新企画を立て、シナリオを書き直し、プロのナレーターに語ってもらって新しいビデオを作成しました。それを持って再度、森井委員長と飯塚毅先生宅に伺い、ご覧にいれたところ、大声一番「100点満点!」と。そのうえ、「これを多数複写してTKC会員に配布し、さらに税務当局にも贈呈するように」とも命じられました。とても嬉しかったですね。

――私もTKC出版の社長として会長である飯塚毅先生の決裁を受ける場面が多かったせいか、よく叱られたりお説教をいただきました。電話口で1時間ぐらいはザラでした。もう一つ白状しますと、飯塚毅先生から「君はパーティや懇親会の席では俺に近づくな。多くのTKC会員先生のために空けておけ」ときつく言われ、真の思いやりとはこのことかと肝に銘じた次第です。

石川 私にとって、飯塚毅先生から教わった一番すごい言葉は「二念を継ぐな」ですね。この言葉に初めて接したのは、昭和58年ごろです。銀行のある人が飯塚邸を訪ねてきたことがあり、たまたまそこに居合わせた私は先生から「君も立ち会ってくれるか」と誘われ、海岸近くの料理屋までご一緒しました。その人から一通りの悩みを聞いた先生は「君は二念を継いでいるからいけないんだ」と厳しく諭されました。「二念を継がない訓練を積めば、直観力が生まれるんだ」というので、私もそのように努めておるところです。

仁木 飯塚毅先生のように奥義を極めることはできないけれど、私はゴルフで二念を継がない訓練をしています。

――フェアウェイもグリーンも道場と同じということですね。

仁木 そう。ゴルフで思い出すのは、昭和48年の第1回遣欧視察団の一員としてスイスに入ったときのこと、インターラーケンのホテルのラウンジで、妙心寺の秋田徳重和尚らと問答が始まりました。このとき飯塚毅先生は「人間の第六感に勝るものはない。自らの勘を研ぎ澄ませなさい」と言われた。私らが「勘を研ぎ澄ませるには、どうすればよいのでしょう」と質問すると、先生は「瞑想することだ」と答えられました。それを聞いて私はこう言いました。「自分は禅はできませんが、ゴルフができます。幾多の大試合を経験してハンデ5になりました。ゴルフボールを前にすると、自然と無心になれます」と。すると先生は、「一芸に秀でるとはなぁ!」と言って、黙ってしまわれた。

というのも、飯塚毅先生はかねがね「事務所の合理化をできないような者が、ゴルフとは何事か」と言い続けておられ、私はTKC入会から約2年半、ゴルフ断ちをしていたのです。しかし、この問答以来、先生はゴルフを事務所合理化と絡めて語ることはなくなり、ゴルフが公認になったと私は理解しています。

この問答を含めて、私は飯塚毅先生との邂逅から約30年の出来事を『わが師 飯塚毅先生』(TKC出版)として、平成13年に1冊の本に纏めました。それを飯塚毅先生にお贈りしたところ、るな子夫人からお手紙を頂戴しました。その一節を紹介したいと思います。 「表紙を両手に持ち拝見しておりまして、何故か涙があふれて参りました。無限に拡がるはるか彼方まで主人の生き様がこだましているように感じました。愛弟子の手によって建てられたありがたい墓碑の様にも思えました。どんなに主人は喜びますことでしょう」

――お話は尽きないのですが、そろそろ終わりにしなくてはなりません。私は飯塚毅先生のご逝去の報を聞いてから、お釈迦様が修行して悟りをひらき、お亡くなりになるまでを書いた教本を、5、6冊読んでみました。すると、次の文章にぶつかりました。
「お釈迦様が、齢八十になっていよいよこれから自分は北に向かって進もうといって最後の伝道の旅に出かけます。そして、ついにクシナガラという町で最後の説法をして亡くなりました。八十歳の最後の最後まで命を本当に大切にされ、命のあらん限り遊行し伝道しながら人々に説法を賜っていた。お釈迦様はまさに努力の人そのものであった。『つくられたものは移り変わっていく。おこたりなく努めよ』と、これが最後の言葉であった」(石上善應著『ミリンダ王の問い』)

今日、葬儀の中で飯塚真玄社長は、「父は強運の人であると同時に、理想に向かって努力をし続けた人でした」と話をされていました。覚者の生き様を述べたこの言葉が、心にじんと響きました。(『TKC会報』平成17年2月号 肩書きは掲載当時)

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