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激動の昭和史を生きる-3
指導者は原理原則を持て

自己練成

本誌お二人のお話しを伺ってますと西欧合理主義よりも、マルクス主義やイスラム教よりも禅の方が原理原則のように聞えますが田中先生が参禅を初められたのは……

田中私か玄峰老師に参禅したのが、昭和16年(1941年)太平洋戦争が起こった年ですよ。

飯塚私は昭和10年から。しかし、植木老師は参禅を許しませんでした。「時期を見る」と言うて、私は参禅を願い出たんですけれども、許さない。翌年また参禅を願い出た。「時期を見る」と、また延ばされた。満3年待たされました。しょうがないからその間、山の中にこもり、あるいは崖っぷちに座り、墓場の中に座り、あらゆる場所で自分で座禅をやった。満3年経過して、4年目になって「今年こそは……」と思って行ったら、老師は「参禅を許す」と。ですから私は、満3年待たされているんです。

そのかわり、早かったです。参禅を許されてから3年目に、見性と言いますか、悟りを手に入れたということを許されたのが昭和16年です。昭和16年の秋に許された。そのときに植木義雄老師が、ちょっと書いてくれました。こういう文句です。

  仏祖大機    仏祖の大機

  全帰掌握    全く掌握に帰す

  人天命脈    人天の命脈

  悉受指呼  ことごとく指呼を受く

私、命がけで座禅をやりましたから、昭和16年の秋にそういう書きつけをもらいましてね。

田中それはあなたが22か3のころだから、大変なものでしょう。

飯塚雲厳寺の弟子では、私1人のようです。

田中あなたがそこにいたころ、私はお寺に入ったんです。

飯塚しかも、先生の仕えられた山本玄峰老師は、植木義雄老師と本当に親しくしておったんだ。

田中兄弟同様。

飯塚そうです。

田中あなたは3年断わられたと言ったけれども、私は驀直(まくじき)に行ってね、最初参じたのは、谷中の全生庵。ご存じでしょう。これは、玄峰老師の弟子が代々住職をやっております。山岡鉄舟の開山ですよね。私は今もしょっちゅう行っておりますが、あそこに老師が提唱に来られたんです。毎月毎月。それで、昭和16年4月29日に刑務所を出て、4月30日、私は玄峰老師のところへ相見に行ったんです。

そのときに、すでにもう老師は知っておられましたからね、刑務所でお会いしていて。刑務所でお会いしたとき、私は理屈をこねたんです。そうしたら、「そうか、あんたはな、今、自分のことは考えないで、世の為だ、人の為だ、国の為だというのは奇特なこっちゃ」と。ほめられたと思って、こっちもばかだからうれしくなっているうちに、「ときにあんたに私は聞きたい。そう、世の為、人の為に尽くしなさるというあんたは一体何ものであるか、あんたは知っていなさるか」ときた。

飯塚(笑)その手だ。

田中「あんたは一体何であるか知っていなさるか」ときた。ガクッときたですよ。それでしばらくロごもったら、「あんた、けったいな人や」と。十津川郷士でしょう。だから紀州弁なんですよね。十津川郷、熊野の奥の天領でしょう。紀州弁で、「けったいな人やな、あんたは。自分が何であるか。物をはかる物差しである自分が何であるかわからなくて、どうして世の為、人の為、国の為ということがわかりなさる?」と。

飯塚全くだ。そう言われるとね。

田中もう何も言えない。それで、「あんたは下道であるか、仏であるか、神であるか、悪魔であるか、何であるか知ってなさるか」と。全然知らない。わからない。自分に目が向いてないから。マルクス主義もそうだった。今度は反対の日本精神というものも1つも見えていない。右翼というものが日本精神では頼りない。本音に入っていってない。だから詰まったら、「お母さんもあなたの為に死んだことだし、これは大変なこっちゃぞ。その思いも大変なこっちゃ。まあこれをゆっくり読みなさい」と言って、昭和14年ですよ、それでくださったのが、白隠禅師の著作集です。

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