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8・15終戦秘話-3

日本にも影響、「ワイマールの落日」

加瀬きょうの本論に入ろう、ということですね。

私、自分は非常に幸運だったと思います。

といいますのは、あの戦争が終るころまでは、日本が右へゆくか左へゆくかという危機的な場面に、たいてい私はいあわせたんですね。それは私が、できるとかなんとかいうこととは別で、そういうめぐり合わせだったんです。

今、お話に出たヒトラーをはじめ、チャーチル、ルーズベルト、スターリン、ムッソリーニ、ゲーリング、くだってはケネディーみんな知っています。「おい、お前」というような関係ではありませんが、交渉したり、ご馳走になったりで。

「ああ、ヒトラー、好きだよ。なにしろご馳走になったからね」というとみんな笑いますがね(笑)。ことにチャーチルはよく知っています。私は彼に触発されて、歴史的なものを書く意欲を強く持ったように思います。

飯塚チャーチルは第2次大戦の回顧録を書いていますね。それにしても、お話をうかがうと、先生がいまや稀有なる現代史の生き証人であるという感を深くします。

ベルリン時代のことをもう少しくわしくお聞かせ下さい。

加瀬1933年1月にヒットラーが天下をとりましたが、あの前後に3年位ベルリンにいたのです。勿論まだ若く独身で、マレーネ・デートリッヒとも友達でしてね。遊んでばかりでした。でも、遊ぶのはいい修業なんです。そうでしょう? 勉強ばかりしていてはろくなことにならない(笑)。

飯塚デートリッヒが女優として全盛時代でしょう。その友達であったとはすごい。

加瀬そうしているところへ、ミュンヘンから、ナチスの勢力がだんだん北上して、ヒトラーがベルリンヘ出て来る。ワイマール共和国末期、ブリューニング政権の時代です。あの共和国は賞讃をあびて登場した民主的政権ですが、13年で、もろくもヒトラーに乗っとられたわけです。そのプロセスが興味深い。私、それを「ワイマールの落日」という題で『文藝春秋』に1年連載しましたが……。

飯塚ご本で拝読しました。たしかに、ドイツの歴史でも特異な一時期で、また、その終えんが第2次大戦に通じ、日本とも深くかかわるわけですね。

加瀬ベートーベン、ゲーテ、ビスマルクを生んだ、あれだけ才能があり知的素質の極めて高い国民が、ヒトラーの雄弁に酔って、とうとう彼を総統にしてしまった。それはなぜだろう、と一生懸命考えて書きました。

飯塚それがご本の迫力になっています。

加瀬私は、ヒトラーと会っていますから、その経験、あるいは感情的な要素が書くものに現れるのでしょうね。

当時、ベルリンは「赤いベルリン」――共産党のベルリンでしたから、寄席でも、ヒトラーの物真似をするとワーッとわくのです。これ傍観者ですね。われわれ外交団も「変な気違いが出てきたものだ」位のことで、ヒトラー派を軽蔑していました。

そのうち彼らはえらい勢力で北上してきて、ベルリンで共産党と市街戦をはじめました。こちらは美女を連れてカフェなんかへ行こうとしますと、警官に止められる。向こうにナチスが機関銃並べている、っていうのですね。

飯塚なるほどそうした経過でワイマール憲法体制が崩壊したわけですが、そのワイマール体制の欠陥を強烈に反省したのは、戦後のアデナウアーでしたね。

加瀬そう、アデナウアー。信念のある本当のドイツ人でした。彼は10年近く、ナチス治下で監獄にいたのです。

戦後、私は、吉田茂さんの側近だった関係で、アデナウアーが来た時、通訳しました。すると、吉田さんは口が悪い人ですから、「この加瀬はいっぱしの自由主義者ぶって、いろいろ書くのだが、ニセ自由主義者ですよ」と言うのです。アデナウアーがびっくりして、「なぜですか」ときくと、「私は牢屋に入ったことがあるが、加瀬は入ったことがない。本当に自由主義がわかるには牢屋へ入らなければね」と答えたのです。

するとアデナウアーは、ニヤッと笑って、「ごもっともです。だけど吉田さん、あなたはたった1度、それも3ヵ月足らずでしょう?私は、ナチスに2度投獄され、合計何年という長期間です。私からいわせると、あなたもニセ自由主義者になる」と言って、3人で笑ったものです。アデナウアーは頑固おやじだが、いい人でした。

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