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8・15終戦秘話-5

18年初めに和平を発想

加瀬結果を見なければいけないが、それまでの道程が同じ様に大切なんです。いかにしてその結果が達成されたか、という過程がね。その中で私たちがやったことは、戦争中ですから外交そのものの持つ役割は少なくて、国内政治の舞台回しに重点があったわけです。

飯塚そうしますと、先生の終戦工作は、いまおっしゃった8月9日からの1週間は最後の仕上げであって、それに向かっての動きは、さらにさかのぼりますね。

加瀬和平を発想したのは、開戦の翌々年1943年(昭和18年)2月初め、日本軍のガダルカナル撤退の頃からです。ほとんど同じ時期に、欧州の東部戦線ではフォン・パウルス将軍のひきいるドイツ軍が降伏して、スターリングラードの攻防戦が終っています。この時から枢軸側は東西ともに、急斜面をころげ落ちるように態勢が悪くなる。あの頃から、これはいかんな、戦争を早く、出来るだけ有利に終結するにはどうしたらいいかと、苦労がはじまったわけです。

もっとも当時はまだまだ実質的な動きが出来る段階ではありません。それが本格的に始まるのは、終戦の前年、1944年の7月、サイパンが落ちてからですね。この頃になると、陸海軍でも心ある少数の人はこれはダメだと思ったわけです。東条内閣の末期ですね。

東条というのは面白い人でしたけれど、ダメなんですね、とに角、この人をやめさせなければいかんということで苦労しました。憲兵につけ回されながら……。

そんな政治的な動きが何故出来たかといえば、私が、秘書官だったからですよ。ただの外務省課長なら、そんなことできやしません。

飯塚そうでしょうね。

加瀬秘書官というのは、政治的に動くことを許されているのです。昼寝しようと思えば出来ますし、やろうと思えばいろんなことが出来る。私は、それで重臣といわれる方々とも親しくなりました。

飯塚先生は『日本外交の憂鬱』の中で、高松宮が動かれたことにも触れていらっしゃいますが、私の聞きましたところでは、皇太后も動いていられますね。皇太后は静岡県の竜沢寺の山本玄峰老師に説かれて、元勲を説得する役に回られたそうです。

それにしても、ガダルカナル撤退の時から終戦工作を発想され、また実践されたというのはすごいことです。

加瀬話を戻しますと、サイパン陥落の責任をとって東条さんがやめ、私たちの終戦工作は活発になるわけです。活発といってもいわゆる地下工作ですがね。

私たちのグループは、1人は福井の殿様松平春嶽侯孫お孫さんの松平康昌侯爵、木戸内相の秘書官長でした。それから陸軍の松谷誠君。この人は杉山元帥の副官で、秘書官をやり、いよいよという時には私たちが工作して鈴木総理の秘書官になってもらい、戦後には北海道自衛隊の司令官をした人です。私とはロンドン時代に一緒でしたが、陸軍きってのインテリで、戦争を早くやめねばならないという信念を持っていました。それと海軍では高木惣吉少将。米内さんのふところ刀といわれた人ですね。

だから宮中は松平、陸軍は松谷、海軍は高木君、そして外務省と重臣は私、という分担でやっていたわけです。

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