飯塚毅博士アーカイブ
プロフィール植木義雄老師との出逢い飯塚毅会計事務所と巡回監査飯塚事件TKC創業とTKC全国会結成
法改正への提言DATEV創業者 Dr. セビガーとの交友研究業績飯塚毅博士の言葉著作物・講演記録
ホーム
 
追悼座談会
飯塚毅先生との出会い
飯塚毅博士と私
バンガード対談集

飯塚毅博士と私

8・15終戦秘話-6

近衛、重光さんと熱海で密談

飯塚命がけだったでしょう。軍の過激派に知られたらバッサリ……。

加瀬東条内閣の末期、サイパンが落ちた時、木戸さんと重光さんがひそかに会い、宮中は木戸さん、政府の方は重光さんがやるということで終戦工作を相談しました。それがずっと尾を引いています。

終戦の年の1月から、もうこれ以上放っておけないと、私たち4人も活発に動きました。余計な話ですが、その年の正月早々、近衛さんと重光さん、それに私が熱海で密会しました。東京ではだめですからね。別々に熱海にゆき、関西の中山鉄工所の社長の空き別荘を使わせてもらいました。憲兵がうるさいですから。新年でいかにものんびり遊んでいるように見せかけるため、女性を連れてゆこうと、近衛さんは愛人を連れてきましたよ。そしてどうやって戦争をやめるか相談したのです。

この時の相談も1つの要素になって、翌2月、陛下が重臣を個別に呼ばれ、戦局をどう思うかとご下問があったのですが、「あくまで戦わねばいけません」とお答えしたのは東条1人。あとの重臣は、明確であるかあいまいであるかの違いはあっても、みんな「平和を考えねばいけません」と申し上げたのです。

飯塚戦争終結の潮時をにおわせたわけですね。

加瀬そうですね。その時、いちばん直截鮮明に「やめなければいけない」と申し上げたのは近衛さんでした。近衛さんは、やや文弱のきらいはありました。やはり最高のお公卿さんですものね。開戦までの日米交渉など、困った人だと思ったこともありましたが、戦争末期には、一身を犠牲にして祖国に捧げる決心をしていて、その点は立派でした。

終戦の前年の7月、東条内閣に交代した小磯内閣の時から、最高戦争指導会議というのができていましてね。これは大本営連絡会議を解消してできたもので、首相と陸・海・外の3相に統帥部から参謀総長と軍令部総長の6人で構成していました。それに、風鈴がついているのです。陸海の軍務局長と内閣書記官長で、この3人が幹事役です。幹事たちが作文つくってもってゆくと、雑談している上の6人が「よしよし」と言って決ってしまうという惰性的で空虚なものでした。

この幹事にまた幹事補佐がついているのです。陸・海・外3省から。時には企画院や大蔵省からも来る。私も外務省を代表して、その1人だったわけです。

先述の私たちのグループは、この会議をなんとかせねばということで、重臣を動かしたりして、できるだけ幹事や幹事補佐ぬきで会議をするように仕向けました。それで「本当のところはどうなんだ」という話をしてもらう。陸海軍務局長なんかが出席していては、とてもそんな話できないですからね。

鈴木内閣の書記官長をつとめた迫水久常さん――この人は府立一中の先輩で私の親友、なかなかできる人でしたが――も含めて、幹事や幹事補佐を排除したわけです。その代りというのもおかしいですが、私たち4人が外務大臣なり米内海軍大臣に話を持ち込んで、最高会議の6人でやってもらい、2回の御前会議を経て8月15日を迎えたわけです。

終戦内閣の鈴木首相は至誠の人でした。それは確かですが、当時の私たちから見ると、どこまで本気に和平をやる気なのか、はかりかねました。最近出る伝記類では、始めからその気だった、ということになっていますがね。時々、随分頼りない総理大臣が出てきたものだ、と思ったものです。

潮時を見て平和にもってゆこうということですが、その潮時の尺度が私たちと鈴木さんでは違うのですね。私たちは、もう急迫していると思っているのですが、鈴木さんは「まだ戦える」と、徳川と武田が三方ヶ原で戦った話なんかするのです。それでも、ともかく陛下の為には身命を惜しまない人でしたから、まあ、結局はよかったんでしょうね。

無血終戦の陰に秘密工作

加瀬私たちのグループの松谷君が鈴木さんの秘書官としてついているでしょう。外務大臣の重光さんや東郷さんは早期和平派だし、海軍大臣の米内さんも寡黙だけど同じ気持ですね。

ところが参謀総長と軍令部総長は、まだやれると言う。阿南陸相――この人はいい人だったが、立場上、両総長と一緒ですね。

ポツダム宣言が出だのが7月26日。それを受諾するかしないかという時に、いまの3人――統帥部両総長と阿南陸相――の軍側は附帯条件をつけようと主張する。しかし、そんな条件をつけたら話がこわれてしまうというので、東郷さんがひそかに陛下に拝謁する。私は木戸さんと話をする。松平侯爵は重臣の間を話して歩くというようなことでした。そして天皇制の維持、国体の維持だけでよい、ということで陛下も了承され、これでゆこうということになったのです。

9日の第1回御前会議はもめましたが、その線に落ち着き、受諾の返事をしました。ところが13日に向こうから返事が来まして、天皇陛下は連合軍最高司令官にsubject toしなければならない、また終局的な日本の政体は、人民の意思による、とありました。そこで「こんなものを受諾したら天皇制が飛んでしまう」という阿南陸相と両統帥部長の意見で、最後までもめたわけです。結局は陛下が、それでもいいではないかと裁断されて、14日の第2回御前会議で結論が出、15日の玉音放送になったわけです。

飯塚終戦までのいきさつは一応承知しているつもりでしたが、こうして、渦中にあって身を挺して和平を推進された先生から、終戦秘話ともいうべき話をうかがって、あらためて感銘しました。御前会議や玉音放送という、一般に喧伝されている「見せ場」に至るまでのプロセスこそ、本当の見所なのだというお話もうなずけます。

加瀬その時、私はつくづく思ったのですが、同じ外務省の仲間でも、一緒にやってくれる人がいないということです。戦争なんて馬鹿らしい、この戦争は負けそうだと、みんなわかっているのに、だれひとり体を張って止めようとしないんですから。これは官僚の体質ですかね。

だから、いやな言葉ですが8月15日の無血終戦がよくできた、と思います。秘密で工作を進めたのがよかったのですね。もし、あれが洩れていたら内乱が起っていたでしょうね。最後に陛下の鶴の一声でおさまったということは、陛下もよくやって下さったということになります。

それにしても、あの太平洋戦争は、しなくてすむ可能性もあったのですよ、それは渦中にあった私の、今も変らない残念な実感です。

前ページ  1   2   3   4   5   6   7  次ページ
(6/7)