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サバイバルの秘訣-3

成長の秘密はスタート時に

飯塚世界を押さえているのでしょう?日本の電卓は。

樫尾現在はそうなっています。

飯塚それはアングロサクソンの大失敗ですね。狭いところに日本民族を押し込んだので、日本人は生きるために夢中になって働き、世界に冠たる商品ができるようになったのですから。

ところで、ここらで、カシオさんの成長の秘密を、発足当時にまでさかのぼっておうかがいできませんか。

樫尾私どもはもとは、ひきもの機械加工業と申しまして、旋盤などの工作機械を使って顕微鏡のボディなんかを作っていたのですが、手間がかかって、売り値が安い。精度の高い機械を入れようとすると金がかかる。そんなことで、将来性のある、当社独自のものを作ろうということになり、2番目の弟(現開発担当専務)が発明家肌でして、計算機はどうかと選んだのです。当時の計算機はすべて輸入の時代でした。

町工場が無謀なことを思いついたわけですが、その下の弟は商才があり、その次の弟は設計ができる。そして私は作る力がある――とそれぞれ得意のものを持っていましたし、私は30代、弟たちは20代で若さによる挑戦だったわけです。

2番目の弟が電気の方の知識を持っていましてね。「いま計算機はメカで動いているが、電気的にはたらくヤツを作ろうじゃないか。可能性はある。自分にやらせてくれないか」というのです。

飯塚ほう。

樫尾何年かかるかわからないが、初志貫徹でやろう、と4人の気持が結びついたのが、スタートになりました。

「カシオさんの社員はよく働く」と、外の人からよくいわれます。これはほめ言葉だけではないでしょうが、なにか燃えるようなものがないと創造的な仕事はできないわけでして、そうしたなにかが発足以来うちの会社のなかにはあるのではないかと思います。

飯塚カシオさんが、ご兄弟でスクラムを組んでやっておられることは、有名ですね。

樫尾今の会社になってもう26年たちました。兄弟のスクラムは創業時代のことで、今はもうそんな形ではやれません。それでも一般の社員がみな、私たちと同じような気持ちでやってくれているのは、難しい仕事を示されて、それに挑戦し、達成するために努力する。同時に、その達成によって成果――誇りや喜びとともに経済的な利益も得られる。そういうものがみな一緒になって、やりがいが生まれているのでしょう。

飯塚おっしゃる通りです。

樫尾よかったと思うのは、世の中にない新しいものを作ろう。先生のおっしゃった「こういうものは便利だ」と思われるようなものを作ってゆく。それが使命だ、と考えてゆきますと、一人一人の社員に、絶えず高い目標を追求してもらわなければならないことになります。

そして、その努力を正しく評価し報いるためには、年功序列的な賃金体系をやめ、能力給に移行する。その手順として資格制度をつくりました。いわば人事考課のシステム化です。

もう1つ、幹部も陣頭指揮で、みんなと一緒に考えながらやってゆこうという姿勢です「お前こうやれ」と、部長や役員が指示するのではなく、「俺はこうやろうと思うがどうだ。もっとよい意見があったら、それに従おう」という気風が、われわれ兄弟でやっていた時代からなんとなくできていました。

飯塚立派ですね。

樫尾いや、それしかないので、仕方なしにそうなった、というのが真相でしょう(笑)。貧乏人は働かないとどうしようもありません。

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