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飯塚毅博士と私

アメリカにとって、今や、軍事的なライバルはソ連であり、経済的な敵は日本という事になって来ている。
 特にその日本に対する敵対意識は、感情をむき出しにした敵意であり、話し合いによる理解を得る段階を越えてしまったようだ。
 1つには、日本にも反省せねばならぬ通商行政に対する統制の根強さが残っていることだ。
 その意味で、日本の今後、世界に生きる針路を明確に指示してくださる大来佐武郎氏の見解こそ、政府も民間も大胆に取り入れるべきだ。
 TKC飯塚毅会長もまた、国際社会に生きる日本の企業が、世界市場でフェアに活躍するためにも、外国とかみ合って行ける商慣行を身につけるべき必要性を力説した。
 両賢人の説話は、今こそ行動に移すべき時期に達していると考える。(編集主幹・木場康治)

“第三の開国”に勇気を-1

対談者(敬称略・順不同)
 大来佐武郎(元外務大臣・国際大学学長)
 飯塚  毅(TKC全国会会長・公認会計士・税理士)
 ※肩書きや発言内容は対談当時のまま掲載しています。

(おおきた・さぶろう) 大正3年旧関東州大連生まれ。昭和12年束京帝国大学工学部電気工学科卒、逓信省に入り、興亜院、大東亜省、外務省を経て一時退官。22年経済安定本部官房調査課長、27年エカフェ事務局に出向、帰国後経済協力室長、総合開発局長などを経て38年退官。39年から日本経済研究センター理事長、48年海外経済協力基金総裁、54年外務大臣、55年対外経済関係担当政府代表などを歴任。現在外務省顧問、国際大学学長、内外政策研究会会長、ローマクラブ常任委員など公職多数。

著書も『日本の経済水準』(昭和23年刊)を皮切りに『資源のない国日本と世界』『大来レポート』『内から見た世界 外から見た日本』『東奔西走』『世界経済診断』『成長の限界』(監訳)『日本へ高まる風圧と期待』など多数。

“貿易摩擦の火消し役”

飯塚貿易摩擦のトラブルシューター(火消し役)として東奔西走、ご苦労様です。

初めに、その方面で“日本の顔”といわれる先生の今日をあらしめたのは何か、素朴な質問から入らせていただきたいと思います。

先生は工学部出身で技術者として逓信省にお入りになったのに、その後のご経歴は驚くほど多彩ですね。

大来学生時代から技術と社会の結びつきに関心を持っていましたし、エコノミストとしての基礎的作業はエンジニアリング・マインドでやってきたのです。

当時は法科万能時代でしてね。調査課長の松前重義さん(後衆議院議員、現東海大学総長)にたきつけられ、入省早々「技術系を差別待遇するな」という連判状を局長のところに持って行ったりしたものです(笑)。

もう1つの大きな経験は、14年に昭和塾に入ったことです。

飯塚近衛文麿公のブレーンとして有名な昭和研究会と関係がありますか。

大来ええ。昭和研究会の中心メンバーが「若い世代に日本の将来を考えてもらおう」と設立したものです。講師は平貞蔵、後藤隆之助、笠信太郎、松本重治、東畑精一、尾崎秀実、風見章、蝋山政道、勝間田清一さん……。

飯塚錚々たる顔ぶれですね。

大来私は間もなく興亜院の華北連絡部へ電力事業担当として派遣されましたので、塾生としての期間は短かかったのですが、あれが私の人生の転回点でした。

連絡部から17年に帰って大東亜省で物資動員計画づくりに参加、20年には大陸と内地との交通断絶に備えて塩と大豆の緊急輸送を献策、両方で100万トンほど運びました。

飯塚敗戦を見通しておられた?

大来20年春ころ昭和塾以来の平貞蔵先生や後藤隆之助さんとはかって戦後問題研究会を組織しました。

飯塚終戦は“虚脱”でなく、新しい活動のスタートだったのでしょうね。

大来「焦土の中から新しい経済社会をつくろう」という意気に燃えて、研究会の雰囲気は明るかったですね。20年の暮れに中間報告として『日本経済再建の方途』、翌年3月に改定版『日本経済再建の基本問題』をまとめ、印刷して各方面に配りました。戦後の経済計画のはしりといえましょう。

終戦後直ぐ、外務省調査局に移り「日本の賠償に関する一研究」という論文を書きポーレー調査団に提出しました。情勢の変化も幸いして、私の建言はある程度とり入れられたと思います。

本誌外務省をやめ、浪人されましたね。

大来21年5月に第1次吉田内閣が発足、秋ごろから外相兼務の吉田さんを囲んで有沢広已、中山伊知郎、東畑精一といった学者が外務省で毎週昼食を共にしながら、復興策を語り合ったのです。私はその書記役でした。この昼食会で有沢さんが提案したのが石炭・鉄鋼の「傾斜生産方式」です。

飯塚あれは復興の推進力になりましたね。

大来それが、2.1ゼネストをひかえて吉田さんの「不逞の輩」発言があり、昼食会も首相特命でつくられていた石炭小委員会も開かれなくなったので外務省をやめたのです。

本誌そして経済安定本部入り。

大来22年6月、片山内閣が発足し、和田博雄さんをトップに強大な権限をもつ安本ができ、さっきの昼食会や石炭小委員会のメンバーが馳せ参じました。1ヵ月で次長の都留重人さんが総論、私がほぼ1人で各論を担当、発表したのが『経済実相報告書』で、これが経済白書第1号です。

飯塚「もはや戦後でない」と喝破したことで有名な白書は、昭和30年ごろでしたね。

大来31年です。責任者は後藤誉之助さんでした。私はそのころ計画部長として、「新長期経済計画」策定を担当しました。これは、歴史的に見れば池田内閣の所得倍増計画の序曲に当たりましょう。

本誌積極成長論者の下村治さんと成長率をめぐって、あの有名な「大来・下村論争」を展開されましたね。

大来私は10年倍増を考えていたのですが、結果は3年で実現しましたから下村さんの方が当たりました。私はそのころ、所得倍増より格差是正や構造改善に関心を向けていて、37年総合開発局長になったとき「全国総合開発計画」を公表しました。

飯塚こうしてご経歴をうかがってくると、先生は戦後日本経済の復興・発展の仕掛け人の1人ですね。いま貿易摩擦の火消し役として活躍していらっしゃるのも、奇しき因縁ですね。

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