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世界の禅のふるさと日本-9

「無」のリアリティー

本誌さっき、道元禅師が「禅宗というのもいけない。あるのは仏法だけ」と強調したというお話がありましたが、歴史的に見れば禅宗は中国で形をとったといえるのではないでしょうか。

中国には古来、「無為」をよしとする老壮の思想が、道教として一般民衆にも浸透していましたから、禅宗でいう「無」もリアリティーがあったと思うのです。

ところが、仏教を、禅宗を輸入した日本には、そうした伝統がなかった。だから、日本の風土の中で、リアリティーのあるものとして定着しなかったのではないか。

門外漢の勝手な感想ですが、どうでしょう。

森本当たっていますよ。もちろん例外はありますが。大勢は葬式仏教になってしまった。特に江戸時代に幕府の道具になってから。

飯塚お寺が行政機関の手先になっていた。明治維新直後の排仏毀釈はその反動という面が大きい。

森本木場主幹が言われたように、「無」という言葉は、もともと中国にあった言葉だから向うの人は誰でも知っているわけですね。

例えば般若心経は、インドの原典を中国語に訳したものですが、短い文章の中に随分「無」という字がある。「無」の観念は当然、インドにもある。

本誌日本にはないことはないが、稀薄だったのでしょうね。むずかしくいえば、日本にはニヒリズムがなかった。

飯塚ニヒリズムといえば、ドイツの哲学者シュペングラーは、その大著『西洋の没落』の中で、「ソクラテスはニヒリストであった」と書いているのです。釈迦についてもそう書いている。ソクラテスはともかくとして、当面、仏教が問題になっているので釈迦についていえば、私はシュペングラーは間違っているのではないかと思う。というのは、釈迦の言う「無」は、限定されないという意味だから。

森本ちょうど1世紀前に活躍したフランス象徴派の大詩人マラルメは、20歳代の手紙に「私は仏教を知らずして無に到達した」と書いています。「知らずして」ということは、ある程度知っていたということですね。

飯塚先生は『道元とサルトル』という本をお出しになっていますが、サルトル以外の哲学者はどうですか。

森本サルトルと親しかったメルロ・ポンティの方がもっと道元に近いと思います。

実存主義のあと構造主義、そのあとのポスト構造主義とかポストモダンとか呼ばれる人たちも近いですよ。

飯塚かつて、妙心寺龍泉庵の老師と一緒にフランスヘ行った時、「向うで禅の講義をしなさい」とすすめられ、原稿を用意していったのですが、機会がありませんでした。

森本弟子丸さんは最後までフランス語はだめでした。

シベリア鉄道経由の片道切符だけ持ってフランスに行ったのです。知識人クラブで講演しろと言われたが、フランス語がしゃべれないので、「これが禅だ」といきなり机の上にあがって坐禅した。それが普及活動の第一歩だったそうです。

飯塚面白い話ですね。

松島・瑞巌寺の盤龍禅師の直系の法孫佐々木承周老師は、アメリカをかけ巡って、禅道場を8つつくりました。

森本僕が坐禅しにゆくフランスの禅道尼苑は敷地25万坪という広大さですが、中川宗淵老師が関係したアメリカの大菩薩禅堂はさらに1ケタ大きいそうですね。

飯塚佐々木老師の禅道場も、1つの山全体だそうですからこれも大きいと思いますよ。

彼もアメリカヘ行った時は、英語をしゃべれなかったのです。今は英語で講義していますが。

森本弟子丸さんも英語でやっていました。

飯塚弟子丸さんはいきなり演壇に上がって坐禅したが、佐々木老師の方は、初めは民家のガレージだったそうです。そこで坐禅しているうち、信者がついた。

本誌先ず坐禅ありき、ですね。

柔道と同じように、世界に広がってゆく禅の母国は、いまや日本を措いてない。折角の貴重な伝統を生かしたいものですね。

きょうは両先生のご体験に発する「禅のすすめ」を有難うございました。

(編集主幹・木場康治)
(VANGUARD 1988年6月号より転載)

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