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別れ

弔辞を読み上げるDr. セビガー
(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』15頁)

2004年11月23日、飯塚毅博士の訃報を聞いたセビガー博士は、12月14日に東京護国寺で営まれた葬儀に駆けつけ、古くからの友人として飯塚毅博士への弔辞を読みあげた。

「家が完成したとき

  死がおとずれる。

この古い格言は、私の兄弟である飯塚毅氏の生涯にそのまま当てはまります。

豊かな長い成功の人生を終えた彼は、完成した家、つまり次のものを残していってくれました。

・大きな家族

・最新のサービスを提供する企業TKC

・税理士という職業の現代社会における権利を確立し、日本における租税法律主義を貫くべく生涯にわたって闘ったすばらしい業績

飯塚毅氏が私の人生に登場したのは1972年のことでした。ご子息の飯塚真玄氏も伴われ、ドイツのニュルンベルクにあるDATEV協同組合を訪問してくださったのです。彼の面差しは自らの職業上の理想を追求する戦士のそれでした。税理士業務の倫理的原則を日本の職業法に根づかせること、正規の簿記の諸原則に則って作成された帳簿の証拠能力を明確化することが氏の願いでした。

すでに1966年に氏は日本の税理士のために電子データ処理を実用化しようというアイディアを温めていたのです。彼はその第一人者でした。そのための基盤が、彼が創設したTKCでした。氏は自分の経済的成功のためにこの会社を設立したのではありません。当時はまだ個人の税理士が大型コンピュータを購入することはできない時代でした。そこで氏は、特に中小規模の日本の会計事務所がTKCと繋がることにより、技術的・経済的に電子データ処理を導入できるようにと尽力したのです。

飯塚毅氏は、日本における税理士を真の意味で独立した自由業者として位置づけようと闘い、法律が許容する範囲において顧客の利益の確保を最優先しようとしました。税理士は、職業上の使命がまず優先され、その制限の範囲内においてのみ自己の収益性を追求することができると考えたのです。

飯塚毅氏はすぐれた徹底性と情熱をもってその思想を深められましたが、その背景には、生涯にわたってドイツ法とアングロサクソン法を自ら研究して得た深い見識がありました。正規の簿記の諸原則に関する研究に対し、氏は中央大学から博士号を授与されました。飯塚毅氏の関心は法律の研究にとどまらず、条文の背後にある経済的・社会的要因にも向けられていました。私の母国語であるドイツ語でドイツ哲学に親しむことも、氏の大きな喜びでした。

氏の影響力は日本国内にとどまらず、ドイツにおける私たちの仕事にも大きな力を与えてくれました。飯塚毅氏の逝去の知らせを受け、私たちは大きな悲しみに包まれました。DATEV協同組合理事長のディーター・ケンプ、DATEVのすべての理事、すべての会員の名において、私はここに心よりお悔やみを申し上げます。

飯塚毅氏は私の人生も豊かにしてくれました。相互の理解に基づく共同作業ができたことは言うまでもありませんが、賢明で心の暖かな彼の人となりを知り、そこから多くのことを学ばせていただきました。私は地球の裏側、ヨーロッパとはまったく異なる世界に兄弟を得たのです。

飯塚毅氏の生涯は、正義を求める不屈の闘いでした。この道を氏は迷うことなく邁進したのです。彼は率直で毅然とした戦士であり、自分にとっても相手にとっても快適とはいいがたい状況でも目標からけっして目を逸らしませんでした。また自分に頼ってくる者に対しては、常に思いやりにあふれた保護者でした。彼はその仕事においては大きな成功を収めました。その足跡は深く刻まれ、今後も長いあいだ影響を及ぼしつづけることでしょう。

晩年は重い病に倒れ闘病の日々でしたが、氏にとってるな子夫人の存在はかけがえのない支えでした。夫人は自分のことを後回しにしても氏のためにいつもそばにいて、献身的な愛をもって最後の日までお世話を続けられました。るな子夫人に私も心から感謝いたします。

日本の万葉集にこんな歌があります。

生き死にの二つの海を厭はしみ
      潮干の山を偲ひつるかも

亡くなった私の兄弟、毅君を思い、ここに畏敬の念をもって頭を垂れます。毅君は、きっとこの山を探し当てたことでしょう。

DATEV協同組合名誉会長 ハインツ・セビガー」(飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』より)

<以上>