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戦争が終結した昭和20年9月、飯塚毅博士は郷里に帰り、翌昭和21年4月に飯塚毅会計事務所を開業した。昭和24年、法令を遵守し、高水準の業務品質を確保するために「巡回監査」を考案し実行した。伝票・帳簿の丸抱えが常識の時代に、同業者の水準の遙か先を行く業務品質が評価され、顧客数も拡大の一途を辿っていった。 飯塚毅会計事務所を創設-1復員し、会計事務所を開業陸軍少尉の辞令を懐に、昭和20年9月18日、我が家にたどり着いた飯塚毅博士は、これからの進路を考えた。東北帝大法科出身なのだから、検事になったらどうかと勧める人もいたが、検事は人生の暗黒面と対峙しなければならない。では弁護士ではどうか。これも時には嘘を言わねばならない。思案の結果、会計人の道を選んだ。数字は嘘をつかないだろうと考えたからだった。(数字が嘘を付かないというのは誤断だったと後に述懐) 昭和21年4月1日、計理士の登録を済ませ、同日に栃木県南西部に位置する人口3万2千人の鹿沼町に飯塚毅会計事務所を開設した。 事務所は、自宅を改造したもので、布団屋の父の店の右角に大きな「飯塚毅会計事務所」の看板を立てた。1階の12畳ほどの部屋に机2脚、タイピスト1人を採用してのスタートだった。飯塚所長は女子職員に手提金庫を預けると、今後自分は関与先からの金銭の授受は直接行わず、金庫にも一切さわらないと宣言した。会計事務所も小なりとはいえ、一個の経営体である以上、所長たるもの清廉潔白でなければならないとの信念からだった。 開業当座は、関与先は全くのゼロ、仕事がなく、やむを得ず、ロンドン大学の政治学テキストや内外の法学・会計学等の図書の読書に明けくれる毎日だった。 昭和22年秋、待望の関与先第1号として、資本金5万円、従業員2名のある木工所が事務所の大きな看板を見て飛び込んできた。開業以来1年が経過していた。月額顧問料3千円で契約。以後次第に関与先が増加しはじめた。 巡回監査の実践業務のかたわら、『政策の形成とその管理』(C. Roland Christensen著)を熟読し、『経営は深い思索と確固たる方針のもと行われるべきだ』との示唆を受けた。 また、英米独仏等の会計事務所の発展の軌跡に学ぼうと、日本橋の丸善に行き、関係する書物があれば無制限に送るように依頼をした。送られてくる書籍を読破するうちに、会計事務所から企業に出向いて会計記録をチェックし、取引の実在性等を検証する「巡回監査」という手法、そして業務の均質性確保のために、チェックリストを有効活用することの2点を印象づけられ、早速実行に移した。 昭和24年に作成した「巡回監査報告書」は、チェック項目が10項と簡単なものであったが、次第に内容が加味されて、やがて数10項目に及ぶほどに精緻化していった。 「決算報告書」も独自の経営分析表に加え、勘定科目の内訳書においては、各科目のすべてを1円に至るまでも省略せずに完全記載し、かつ内訳書には監査担当者の捺印をし、関与先責任者の納得したことを示す承認印を受けることを義務づけた。 巡回監査は毎月確実に、誠実に実行された。当初は採算を度外視しても完遂された。手書き、ソロバンの時代であり、試算表が1回で合うことは難しかった。しかし貸借が1円でも合わなければ、職員は徹夜してでも頑張った。 管理文書を徹底活用するうちに、良質な仕事ぶりが評価され、事務所は次第に拡大発展の道を辿り、職員10余名、関与先150余件となった昭和30年9月、ついに念願の東京進出を果たし、東京事務所が文京区曙町に、職員4名によって開設された。 こうして飯塚毅会計事務所は着実に成長し、昭和35年当時には、2つの事務所をあわせて職員約40名、関与先約500件を数える規模にまで成長していた。 | |||||||||||