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飯塚毅博士は、昭和37年に米国を訪れ銀行の大型コンピュータによって中小会計事務所の職域侵害が進んでいることを知り、日本の会計人の職域防衛のために計算センター設立を決意した。飯塚事件の勃発で計画は数年遅れたが、昭和41年栃木県計算センターを設立。さらに飯塚事件裁判の無罪判決の翌年(昭和46年)、会計人集団TKC全国会が結成された。 TKC創業-1昭和37年、ニューヨークで開催された第8回世界会計人会議に、日本の会計人を代表する立場で出席した飯塚毅博士は、 AICPA本部のケアリー専務理事を訪ね、全米の銀行がコンピュータを使った財務計算受託を開始し、さらに小規模会計事務所の関与先が、大会計事務所に吸収されている事実を知り、日本の会計事務所の先行きに強烈な危機意識を抱き、計算センター設立を思い立った。 米国で知った小規模会計事務所の危機第8回世界会計人会議へ出発(昭和37年9月14日)
(写真出典:TKC全国会30周年記念誌『変革に挑戦する会計人集団』16頁) 「それは昭和37年(1962年)9月中旬のことだった。アメリカのニューヨーク市で、第8回世界会計人会議が開催されることになり、 その主会場は世界的に有名なウォルドルフ・アストリヤ・ホテルであった。私は全日本計理士会の6人の代表たちと日本を発ち、まずサンフランシスコに着き、自分の昭和27年以来の顧問先である外資企業の本社を訪問し、重役連中との会議をもち、次いで、カナダのトロント市で、カナダ公認会計士協会の幹部たちとの交歓の後、ニューヨークに飛び、セントラル・パーク前のプラザ・ホテルに止宿して、世界会計人会議に出席した。会議の真ん中に当たる日に、息抜きの為のゴルフなどの慰安日があった。好機逸すべからず、 私は五番街のAICPA(米国公認会計士協会)本部に当時の専務理事(後の副会長)のJ. L. ケアリー(Carey)氏を訪ね、4時間近く懇談した。 焦点は米国の職業会計人を取り巻く社会環境やその対応策であった。 ここで意外なことを2つ知った。1つは、全米7,000に及ぶ銀行がコンピュータによる財務計算の受託業務を開始し、 職業会計人の職域が大々的に荒らされている、ということ。2つめは、銀行の介入によって、小規模会計事務所の関与先が、国家的規模をもつ大会計事務所に相当な速度で吸収されている、ということであった。 第1の点については、協会はワシントンの議会に陳情し、銀行による財務計算の受託を禁止する立法処理をとってもらおうとしたが、憲法上の営業の自由を根拠として、議会からは断わられたという。2つめの点については、規模の大小を問わず、アメリカの公認会計士事務所の業務が均質性をもっているという点を、全米銀行協会の1万5,000の全会員に周知させる必要があるから、協会の倫理綱領(The Institute's Code of Ethics)と全会計事務所の所在地図一覧とを送達し、併せて、別途の施策として職業会計人の生涯教育に努力を集中して行く、ということであった。 この2点は、懇談中に感受した、重点課題であった。この日、懇談後に、私はニューヨーク市内の書店を廻って、200冊ばかりのコンピュータ関係の参考書を注文した」(「TKC創設の思考過程と企業理念」 TKC創業35周年記念誌『ふるさと日本35』) | |||||||||