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TKC創業-2

会計人の職域防衛のために計算センター設立を決意

「プラザ・ホテルに戻ってから、この2点について熟考する機会をもった。さあどうする、と自分に向かって問い詰めてみた。

結論はこうだった。アメリカのこの動きは、必ず遠からず日本に影響してくるに違いない。 銀行による顧問先の収奪から、会計事務所を防衛しなければならない。最も効果的な会計事務所の防衛策は、私が自ら計算センターを創ってしまうことだろう。

先端的な日本の職業会計人は、先を争うように、自ら計算センターを作ろうとするだろう。 北海道から沖縄まで、続々と計算センターが創られてゆくだろう。だが、日本の職業会計人は、先端的であればあるほど、内心に秘められた利己心の追求という呪縛(じゅばく)からは脱却できない。

開業以来20年間の私の観察によれば、日本の多くの会計人は哲学を勉強しようとしていない。

また、日本の職業会計人を取り巻く法律的環境は、一言にして言えば貧困そのものである。 税法然り、会計法規然り、である。それは一体、何に基因しているのか。憲法上、国会は国の唯一の立法機関である、とされているが(41条)、その国会を構成する国会議員諸公は、その本来的な任務である法案作成を避け、立法事務の殆どを官僚に依存している。その官僚は、栄達と保身とが中心的な内心の衝動核である結果、立法事務については、先見的自発性と積極性とに欠けてしまう。従って、放置しておけば、日本の法律は、先進文明国の中では、常時劣位に立ってしまう運命にある。 例えば、ドイツには既に「戦争法」(Kriegs-gesetz)までが作られているが、日本には、国の未発の非常事態に対応する法律さえ作られていないのである。

そればかりではない。日本には、会計事務所の効果的・合法的・発展的運営に関する手引書すら無い。この点では、日本の会計事務所を取り巻く社会的環境は貧困すぎる。米・英・独・佛の各国と比較すると、この点の貧困さは、ぞっとするばかりである。その原因は、日本が国家として、会計事務所の法人化を認めなかった点が、もっとも大きい、と認められる。この点は、私が計算センターを開設した暁には、その全会員に、飯塚毅会計事務所の長年かけて練り上げた管理文書を、完全に全面開放して、その体質改善に貢献しなければならない。

昭和41年10月に計算センター設立

昭和47年頃のTKC栃木県計算センター
(写真出典:TKC全国会30周年記念誌『変革に挑戦する会計人集団』357頁)

以上の考え方がほぼ固まった昭和38年2月、私は専修大学法学部大学院教授の田中勝次郎博士から、意外なことを聞かされた。 田中勝次郎博士は日本税法学会の初代理事長であり、国税庁法律顧問であり、東北帝国大学時代の私の恩師勝本正晃博士から、飯塚の法学博士の学位論文執筆上の指導教授を依嘱されていたお方である。話の要点は、国税庁が飯塚毅税理士の抹殺を狙って調査を始めた、というものだった。突如としての、国税当局と真向から対立するいわゆる飯塚事件の勃発である。翌昭和39年3月、宇都宮地検は飯塚毅会計事務所の職員4名を逮捕拘禁し、5月1日に公判を開始し、昭和45年11月18日の判決公判で無罪が宣告されるまで、実に6年半を費したのだった。その前、飯塚事件勃発以来一度も飯塚を喚問しない当局の態度を不快とし、私は国会を通して検事総長に対し飯塚の喚問を要求し、昭和40年7月末、宇都宮地検に出頭し2日間に渡り、詳細に当局の主張を反駁し、主任検事はこれを丁寧に書き取り、終って私に詫びたのだった。

私は、法廷が事件の決着としての判決を出すのを待たず、事態の表面上の鎮静を待って、 昭和41年10月、栃木県計算センター(TKC)を宇都宮に創設した。資本金は100万円だった」 (「TKC創設の思考過程と企業理念」 TKC創業35周年記念誌『ふるさと日本35』)

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