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昭和38年11月19日、飯塚毅会計事務所とその関与先69社は関信国税局から一斉に未曾有の税務調査を受ける。いわゆる「飯塚事件」の勃発である。飯塚毅税理士の孤立無援の長い闘いが始まる。やがて事件は国会でも取り上げられる。職員4名が逮捕・起訴される。約6年の裁判を経て昭和45年11月全員無罪の判決が下る。
飯塚事件の発端-1官吏の私怨昭和35年、飯塚毅税理士の関与先である米国資本の船会社の在日総支配人に対して、所得税80万円の更正処分(税額の修正)が下された。 課税処分は税務署長の権限事項なので、飯塚毅税理士が所轄税務署に出頭して理由を尋ねたところ、 「国税局に聞いてくれ」という。東京国税局を訪ねると、「国税庁に聞いてくれ」と言われ、国税庁を訪れると「主税局の税制一課に聞いてくれ」とたらい回しにされたすえ、その発令者が主税局税制一課のY課長補佐であることをつきとめた。 Y課長補佐の更正処分発令の根拠は、日米租税条約3条「短期滞在者の課税要件」の日本文を踏まえて行われたことがわかったので、 飯塚毅税理士は「条約の末尾に『ひとしく正文である日本語及び英語により本書2通を作成した』旨の明文がある以上、その適用は日英両文の意味の合致点において実施すべきであり、Y課長補佐の理論は誤りである」と主張した。約30分間にわたる押し問答の後、税制一課長が課長補佐全員を集合させて小会議を開いて検討した結果、飯塚毅税理士の主張が妥当であると認められ、Y課長補佐の主張は退けられた。Y課長補佐は、「今回だけはあなたの意見を認めて処分は取り消します」と言ったという。エリート官僚への道を順調に歩みつつあったY氏だったが、この時、飯塚毅税理士に上司の前で恥をかかされたと思いこみ、「生涯の怨み」と言っていたという。このY課長補佐が後に関東信越国税局直税部長として、飯塚事件追及の先頭に立った人物だった。 飯塚毅税理士は、納税においては「1円の不足も、1円の納めすぎもあるべきではない」ことを信条としていた。課税当局の不法・不当な課税処分に対しては、不服審査請求を提出して再審査を求め、ことごとくその申請が認められていた。また当時の悪しき慣行であった税務調査などの際に税理士による税務署の役人への飲食接待等の行為とも全く無縁だった。税務当局にとっては、目障りな存在であったことは容易に想像される。 「飯塚にも相当に思い当たる節がある。例えば、改正法律の説明会等に国税庁から役人がきて、多数の税理士の面前で講義する。 飯塚が不審の点を衝くと、たまたま回答に詰まって壇上で赤面する、といった場面が従来はあった。また、税務署の役人との私的交際は皆無に近く、談合でことを解決する態度をとったことがない。立ち会い無用論を唱えて、立ち会いは殆どやったことがない。筋違いな更正処分があれば、必ず反論する。税務当局との理論闘争で敗れた事績がない。したがって、第一線の係長や課長クラスには、全く受けが悪い。だから局長や部長が栃木県の視察などに見えると、飯塚の悪口は山ほど聞かされる」(『飯塚事件裁判記録』第13巻) |
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