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空前の税務調査第1次調査(昭和38年11月19日〜12月14日)栃木新聞・昭和38年11月20日発行 飯塚毅会計事務所と関与先企業に対する税務調査は昭和38年6月24日から始められた。調査は鹿沼税務署、宇都宮税務署、栃木税務署、佐野税務署、大田原税務署の5税務署管内の関与先法人25社にのぼった。 8月16日、関信局は税界の有力業界紙を集めて飯塚毅税理士が脱税指導を行ったので、資格剥奪または告発をするとの発表を行った。 そして昭和38年11月19日からいよいよ本格的な大調査(第1次調査)がスタートする。 関信局は鹿沼・宇都宮の2税務署から、飯塚毅会計事務所と鹿沼、日光、今市、宇都宮、鬼怒川、川治などにある関与先69社の一斉調査に踏み切った。連日80人の調査官が投入される空前の規模の税務調査だった。飯塚毅会計事務所とその関与先を一斉に急襲するという前例のない過酷な調査だった。調査理由は、飯塚毅税理士が別段賞与による利益調節で脱税を指導したというものだった。関信局は飯塚毅税理士の税理士法違反だけではなく、関与先企業の脱税も追求するとの厳しい姿勢で臨んだ。地元新聞の『栃木新聞』(11.20)には6段抜きで「税理士が脱税を指導 架空の賞与を計上」の記事が掲載された。 この間、当局の攻勢に耐えきれず、調査の中止等を交換条件に、飯塚毅会計事務所との顧問契約を解除した企業は、年末までに約80社にのぼった。そして、 第1次調査は、12月14日まで続けられた。 飯塚毅会計事務所の関与先社長の証言「その調査は朝から晩までかかりました。自分はそれに立ち会わねばならず、どうしても現場に行かねばならぬときは 断って行きましたが、自宅の帳簿から現場まで全部調査され、非常な打撃を受けました。調査を毎日やられたため仕事にならず、倒産寸前になったのです。自分は別段賞与を本当に支払うつもりでしたが、半年も1年も税務署が毎日のように自分を取り調べあるいは事務的に来られ、あらゆるところに四方八方来られて本当に困ってしまいました。それで別の税理士さんに頼んで税務署に交渉してもらい、別段賞与の分を修正申告してもらったのです」 第2次調査(昭和39年2月13日〜4月6日)攻める立場の関信局側は、12月末に関係する税務署長を集めて対策会議を開き、1月初旬に国税庁長官に「飯塚事件調査概況」を提出している。この時期当局は、事件を刑事問題化する方向で第2次調査の準備を進めていた。これに対して飯塚毅税理士側は、業界関係者や政治家に事件の真相を訴えることによって、理解者を次第に増やしていった。飯塚毅税理士の理解者の1人、全日本計理士会平木信二会長は、国税庁長官をはじめ関係者との調整に精力的に動いた。腰の重かった日本税理士会連合会や関東信越税理士会にも飯塚毅税理士への事情聴取等の動きが出始めている。昭和39年2月13日に第2次調査が開始された。関与先への強硬な税務調査と並行して、飯塚毅会計事務所の行っている保険代理業を法令違反として取り締まろうとするなどの動きが見られた。 第2次調査は、4月6日まで続けられたが、その間の3月4日には国会で飯塚事件が取り上げられ、3月14日には飯塚毅会計事務所の4人の職員が逮捕された。 | |||||||||||||||