飯塚毅博士アーカイブ
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虚弱だった少年時代
生涯の師との出逢い
見性を許されるまで

植木義雄老師との出逢い

飯塚毅博士は、栃木県鹿沼で生まれた。少年時代は虚弱児童だった。16歳のときに生涯の師となる那須雲巖寺の植木義雄老師と出逢い、坐禅に打ち込むようになる。やがて東北帝国大学在学中の昭和16年(1941年)に植木義雄老師から見性(禅門で師から自己の本性を見きわめたと認められること)を許される。

虚弱だった少年時代


少年時代の飯塚毅博士
(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』377頁)

飯塚毅博士はその少年時代を次のように述懐している。

「私は布団屋の職人の倅に生まれました。大正7年7月8日に、布団屋の職人飯塚四朗と、その妻である飯塚勝の一人息子として生まれたのです。生まれたときの私の住居は杉皮ぶきの屋根、その屋根に竹を割って五寸釘で竹と杉の皮をおさえておくという構造の三軒長屋で、私は1歳から12歳までは、そこで暮らしました。4畳半と6畳しかない貧しい家でした。

小学校1年生の時に、私は自転車事故にあいました。7歳というとまだ骨が固まっていない時です。ちょうど夕暮れ迫る7時頃でした。今から51年前のことですから懐中電灯などあろうはずがありません。自転車にちょうちんをかけて走っていました。ちょうちんは、せいぜい2、3メートル先しか明るくないため、うんとはなれた物は見えません。夕暮れの路上を全力で疾走してくる自転車に、私は正面衝突してしまいました。

だいたい7メートル位はね飛ばされてしまいました。親達は死んでしまうのではないかと思ったらしい。しかし、幸い死ぬのはまぬがれました。ただし、すぐ発病して乾性の肋膜炎にかかり、宇都宮の江田病院に入院させられることになりました。何しろ、父親達は食うや食わずの布団屋の職人の世帯でしたから、今のように健康保険などの無いころ、一人息子が病院に入るというのは、並大抵のことではなかったようです。私の父は泣きながら、伜の入院費を稼ぐため頑張ったわけです。

小学校4年生位になった時に、だんだんわかってきたのですが、意外なほど私が神経質であり、意外なほど気が弱いことを知ったのです。例えば、血をみるとすぐ吐くのです。ちょっと誰かがナイフで手を切り、血が出た。その血を見た瞬間に、わあっと吐いてしまうのです。

それほど神経が細く、気が弱く、全くなさけない神経状態だったのです。それを知って、私の父が非常に悩みまして、私の母によく言ったそうです。『この子は俺の跡さえ継げない。布団屋の職人にさえなれない』と。

私は6年間ドクターストップで運動会に出られませんでした。当時は毎年新学期になると、校医が身体検査にまわって来て、私の所へ来ると、『ああ、この子はだめだよ。運動会には出さないように』とクラス担任の先生に言うのです。そのため、私はとうとう6年間も運動会に、出はぐれてしまった。自分の学友達が嬉々として、運動会でいろんなふうに飛んだりはねたりやっている時に、私は運動会場の隅っこの方でオデンなどをかじりながら、しょんぼりと立っていた。それが飯塚の少年時代であります。

問題意識形成の背景としての生い立ちというのは、概括すれば、大事故と、虚弱と、貧困の中で暮らしておったということが、言えると思います」(飯塚毅著作集1『会計人の原点』168〜171ページ)