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生涯の師との出逢い昭和10年、16歳の頃、那須雲巖寺に名僧がいるとの評判を聞いて雲巖寺を訪ねた。 「雲巖寺へまいりましたところ、朝着いたのですが、午後の3時頃までは、老師はいらっしゃらないとのこと。わたしはかたい板の間にすわったきり、老師のお帰りをお待ちしていました。3時が過ぎて4時頃に外から老師がお帰りになった。そして紹介状を見て、 『うんそうか』 それから私の顔や姿、その他をじろじろとながめた末に、 『まあおれ』 の一言です。たったそれっきりです。まあおれ、まあいたらよいという意味です。そう言って自分の部屋へ入ってゆかれた。それから、私は雲巖寺の書生となり、雲巖寺の坐禅生活に馴染んでいくようになったわけです」(飯塚毅著作集1『会計人の原点』175ページ) 「参禅して入室し、老師の部屋に入って老師と問答をやるということを願い出たのです。この私の申し出に対する答えは、『時期をみる』の一言です。その一言、一発で断わられてしまったのです。翌年も、つまり17歳の時にも行ったのです。 『何とか参禅させてください。参禅を許してください』 『時期をみる』 その翌年もまた、植木義雄老師に参禅入室を願い出たのですが、又もや『時期をみる』と、満3ヵ年間待たされてしまいました。そこで、『相手は時期をみると言うのか、しからば私は入室する前に禅の極意をつかんでやろう』と思い、福島の満願寺時代は坐禅に没頭したのでございます。この満願寺時代の最初の3ヵ月間くらいは、何しろ虚弱児が毎日学校までの3里の道を歩くのですから、ヘトヘトになって全くだめでした。しかし、その中にだんだん慣れてきまして、毎日3里歩くことが平気になってきました。そして私は、禅に没頭し始めたのです。木刀1本かつぎまして、何しろ阿武隈川のほとりの山の中ですから何が出るかわからない。だから木刀1本かついで一夜の坐禅を、これは夜坐といいますが、阿武隈川の激流が流れている崖っぶちや、山の上の墓場や、本堂で坐禅を行ったのでございます。和尚さんに無断で本堂に入り、仏壇に並べておいてある骨つぼの1個を出して来て自分の目の前で開けると、そこには白骨がちゃんと納めてある。 『我れ白骨の時いかん』という禅の公案がありますが、これを白骨観といいます。『自分が今白骨になったらどうだ』という禅の問答なのです。真夜中の12時過ぎにお寺の本堂の中で、白骨を目の前にして坐禅をし、2時頃になるとくたびれて、お骨をそっとしばり直して元にもどし、自分の部屋に帰って寝る。このように私は、断崖とか、墓場の中とか、お寺の本堂の中とか、あらゆる場所を使って、しゃにむに坐禅に没頭したわけです。 こうして、私は満3年待たされて4年目に『畜生、今度許さなかったら承知しないぞ』と思っていたところ、やっとのことで参禅入室を許されたのです。ねばり強く辛抱し、その許しを待ったのです。ところが老師は、私の腹の中をちゃんと見ていたのです。今になって、私にはよく分かります。多くの人達は、この目で実際に見ないことには、人の心の内部は分からないと思っている。しかし、そうではないのです。人間が修練をある程度積んでくると、この目で見なくても見えるようになってくる。本当なのです。 『ははあ、飯塚、今はこういう状態だな、まだだめだ。つっけんどんにつき返してやろう』『ああ、ここまで来たか、いやまだだめだ』『ここまで来たか、よし参禅を許してやろう』と、こういうわけなのです。老師には、私の心の中が手にとるように見えるのです」(飯塚毅著作集 1『会計人の原点』181〜183ページ) |
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