|
見性を許されるまで-1自分自身との激戦―福島高等商業学校時代福島高等商業学校時代
「昭和11年の4月、福島高等商業学校に無試験で入学しましたが、全校で無試験というのが10名位おりました。昭和12年の4月になりますと、寮を追い出されて、どこかへ行かなければならない。25円ではその下宿料には足らない。そこで『はっ』と気がついたのが満願寺でした。私はすぐ満願寺の和尚を単身でたずねました。学校から丁度一里半はなれている、阿武隈川のほとりの山の中のお寺です。 『にぎりめし1個、みそをぬったものだけで結構ですから、お昼のご飯も含めて12円にしていただきとう存じます』和尚さんは『こいつ』などと言いましたが、『結構だ、よろしい。じゃ、そうしてやろう』と承知され、結局、私は昼めし付き12円というべらぼうに安い下宿料で、おかせて貰うようになりました。 学校と満願寺との間を毎日往復するから3里歩くわけです。初めはボサーッとして3里の道を歩いていたのですが、この往復の時間に、あまり長い文章の書物は読むわけにはいかないが、短文集であれば読めると思い、本屋で論語を見つけました。そして、朝、学校へ行く時に5文章、帰る時に5文章、往復それぞれ5文章で毎日10文章ずつを丸暗記しました。私が何度も論語を口に出すのは、実は18歳の頃わずか500文前後にすぎない論語を丸暗記してしまった結果なのです」(飯塚毅著作集 1『会計人の原点』178〜180ページ) 「こうして私は坐禅に没頭したため、福島高商時代の後半は全く学校に出なくなりました。だんだん坐禅に熱中してきますと、教授の限界が見えてくるようになるのです。『ああ、この教授はあの書物とこの書物だけを読んで、その中を行ったり来たりしているだけだな』と。そして時々その先生の教室に出かけて『先生は、こういうことを言われたけれども、先生はこういう学説を読んでおられないのか、あなたの説と矛盾するのではないのか、あなたの説の弁明を問う』と、満座の中でやるわけです。すると教授は棒立ちのまま真っ赤な顔をして、『まだ読んでおりません』とかなんとか言うのです。しまいには教授会の中で飯塚恐怖症という旋風が起きたとのことです」(飯塚毅著作集 1『会計人の原点』180ページ) 東北帝国大学に進む「こうして私は昭和14年に東北帝国大学に入学しました。私は、1年で群を抜いてトップに立っていました。 それはいいのですが、いつの間にか私は天狗になっていました。これが青年の陥りやすいところです。青年はともすれば、こういう気持ちになりやすい。そこで私は、学校に出ないことにしてしまった。すべての教授について、第1時間の授業しか出ないと決めてしまったのです。そして第1時間目の講義にだけ出席し、『諸君、民法について勉強しようとするならば、日本の参考書はこれとこれ、アメリカの参考書はこれ、ドイツのはこれ』と教授が書きますと、それだけ書き写してくる。あとの講義には出ない。そして外国の文献を丸善に注文して、届くのを待っている。ですから、私は大学に入学してから卒業するまでの間、全部で2週間とは学校に行っていない。このような極端な生活を、私は送ったのです。 『教授が推薦する外国文献を片っ端から読んでやろう』と決心し、毎日原書を100ページ日本語を200ページ、これを日課にしたのです。そうこうしているうちに、とうとう肺を患ってしまった。というのは、お腹の中に食物が入っていると、どうも読書がすすまない。ですから、面倒臭いので食べないことにし、1日に牛乳を2本位しか飲まないことにしました。そうしたところ、たちまち体が消耗して、おかしい微熱が出る。毎晩、微熱が出る。大学病院で診察してもらったところ、『肺門リンパ腺炎で1年間の静養を要する』ということになってしまいました。そこで私は、当時は薬もなかったものですから、満願寺の離れを借りて1年間、天井や青空を見ながら過ごしたのです。医者が活字を見るなと言うものですから、天井の節穴だけを数えて寝ていたのです」(飯塚毅著作集 1『会計人の原点』185〜186ページ)
|
|||||||||||