
飯塚事件の発端-2
飯塚事件の引き金
昭和37年10月16日、勝本正晃弁護士を代理人とし、飯塚毅税理士が関与する2社の税務訴訟が、東京地方裁判所に提起された。
飯塚毅税理士が税務訴訟を行った理由は、
- 別段賞与は架空賞与であるとして否認
- 日当(期末近くに新たに旅費規定を制定し遡及支給した)が否認されたことを不服として提起したものだった。
- 別段賞与は当時の法人税基本通達にもとづく引当金で、民法上の潜在的債務なので、従業員の認識も必要とせず、法人税の申告期限までに受給者ごとに分別されておれば足りる、
- 日当は定額とするのが正しく、旅費規定の制定は経営者の自治に委ねられており、期中で制定して遡及適用しても違法性はない、
とするものであった。しかし事態は思わぬ方向へと走り始めてしまった。
昭和38年2月8日に、国税庁で会議が開かれた。その席には、国税庁の顧問として田中勝次郎博士が出席していた。田中博士は実は飯塚毅税理士の恩師だった。
「その席には、飯塚毅税理士が所得税法第3(現行法第9条)の旅費概念に関して出していた審査請求事件に対し、審理課としてどう対処してよいのか分からないので、解決案をお示し願いたい、という問題の提起がなされていたそうです。これを聞いた某幹部が『生いきな奴だ。誰だって叩けば埃が出るんだ。やっちまえ』と叫んだそうです。そこで問題解決への話はどこかへ吹っ飛んでしまって、国税庁として、全力をあげて飯塚毅税理士を叩くという方向にいってしまったのだそうです。そこから、猛烈な、調査という名の弾圧が始まったのでした」(『TKC会報』昭和56年6月号「飯塚事件の真相は何だったのか」)
前ページ
1
2
(2/2)