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TKC創業-3

「会計事務所の職域防衛と運命打開」の事業目的

「こうして昭和41年10月22日、株式会社栃木県計算センター(TKC)を設立した。
設立に際して会社定款には、2つの事業目的が明記された。

  1. 会計事務所の職域防衛と運命打開のため受託する計算センターの経営
  2. 地方公共団体の行政効率向上のため受託する計算センターの経営

昭和43年からは財務計算の受託センターとしての活動が始まった。しかし利用する会計事務所は思うようには増えなかった。コンピュータのレンタル料金の支出が1分間1,000円。1社の計算に36分。これに対して財務処理計算料金の収入は1,000円。みるみる資金はショートした。

高い理想を掲げて、センターを立ち上げたものの、企業経営の厳しさに、打ちのめされそうになった。しかし、この苦しい時期(昭和44年〜45年)をなんとか持ちこたえて、昭和46年には、利用会計事務所数も300件に近づき、安定経営の時代を迎えた。

国税当局による飯塚は大型の脱税指導者だとの宣伝がゆき届いていたのか、会員会計人の募集は難澁を極めた。数千通のDMを出して東京商工会議所に導入セミナーを開催しても、集まる会計人は1人か2人、時にはゼロということもあった。泣かされた。然し、初志忘るべからずである。職業会計人の職域防衛と運命打開の悲願は、蟻の歩みのように遅い速度ではあったが、徐々に全国の職業会計人業界に浸透して行った。

計算センターは、東京へ、大阪へ、岡山へ、と伸びて行った。伸びる度びに電算機は富士通さんにお世話になったが、とくに富士通さんが、「電算機利用による会計事務所の合理化」と称する私の著作を、何万部となく、無償で印刷提供して下さったのは有難かった。


『電算機利用による会計事務所の合理化』

このTKCの揺籃期に、栃木県黒磯町(後の黒磯市)の税務課長(後の助役)から、電算機による地方自治体行政の効率向上の緊急性を説かれ、愕然として眼の鱗が落ち、この領域進出の指導を頂き始めたことはTKCの社史にとって画期的な出来ごとだった。

さらに、当時日本オリベッティ社に在職していた伊藤重一、鎌本勝博の両君を通してルチアーノ・コーヘン社長に接触する機会を得、この社長の紹介で西ドイツのDATEVセンターのハインツ・セビガー社長(Dr. Heinz Sebiger)との連携が生まれたことは、決定的な事件だった。昭和47年1月、私は長男(飯塚真玄 現TKC会長)を伴ってDATEVを訪問し、社長達と会談し、DATEVとTKCとが、その経営の根本理念において完全に同一であることを互いに確認して歓喜しかつ雀躍した」(「TKC創設の思考過程と企業理念」 TKC創業35周年記念誌『ふるさと日本35』)

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