飯塚毅博士アーカイブ
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直接その薫陶を受けた、後進の会計人を始め、飯塚毅博士と交流のあった 学界、政界、経済界等の人々による飯塚毅博士の思い出を収録。

追悼座談会〜飯塚毅先生を偲んで〜-1

飯塚毅博士の葬儀終了後、飯塚毅博士の教えを受けた4人の会計人による追悼座談会を行った(平成16年12月14日)。

 

出席者(敬称略・順不同)

 TKC東京会元会長・元全国会中央研修所長

  岩田守耕

 TKC東京会元副会長・資産対策研究会代表幹事

  石川和夫

 TKC千葉会元会長・元全国会書面添付推進委員長

  宮崎健一

 TKC中国会会長・元全国会システム委員長

  仁木安一

司会

 TKC会報編集長

  高橋

 

今日から君は僕の同志だよ

――飯塚毅先生を偲ぶ座談会を開催いたします。今日は、永く飯塚毅先生から教えを受けた先発会員の皆さんにお集まりいただきました。皆さんの飯塚毅先生への思いは、大変なものだとは思いますが、今回の主旨は、飯塚毅先生と何処で、どんな会話があって、どう感銘を受けたかといった具体的接点のお話を伺いたいと考えています。それではまず、飯塚毅先生との出会いからお願いいたします。

宮崎 この中でTKC入会が一番早い、私からお話しいたしましょう。

昭和45年6月に、私は飯塚毅先生からコンピュータ共同利用のご案内をいただきました。「飯塚事件」という強烈な弾圧を乗り越えた人は一体どんなお考えを持っているんだろう、飯塚毅先生はどんな具合にコンピュータを利用されるんだろう、と興味を引かれ、東京税理士会館で飯塚毅先生の導入セミナーを受けました。

そのとき先生は、「飯塚事件」の全貌に触れ、税務当局に対する姿勢、あるいは関与先に対する態度などについて詳しくお話しされました。これらの諸問題は、当時の私が最も苦しんでいたことでもあり、驚きと嬉しさで感動いたしました。TKCコンピュータ会計についても新鮮な思いで伺い、即入会を決め、申し込みの手続きを行った次第です。

――飯塚毅先生と最初に交わされた言葉は何でしたか。

宮崎 初めて飯塚毅先生の謦咳に接したのは、同年7月2日です。東京の飯塚毅会計事務所に伺って、そこで実地講習会を全職員と一緒に受けました。 そのとき飯塚毅先生は、教えてやるぞ、という姿勢ではなく、「君は今日から僕の同志だよ」と言われました。さらに先生は、コンピュータ会計のイロハから、税理士としての人生は如何にあるべきか等々、私の質問にも懇切丁寧にお答えくださいました。そのとき私は、生涯この人を師匠にしてついていこうと決心したのです。

石川 私が飯塚毅先生の導入セミナーを聴きに行ったのは、昭和46年4月のことです。「コンピュータ会計事務所全国協議会」という大きな幟が掲げられた池袋の豊島公会堂で飯塚毅先生が口にされた言葉を、私は今も忘れはしません。それは、「いわれ無き自己限定を排せよ」と「見ない人には実在しない運命の岐路」の二つです。

そのとき高橋先生は、壇上でリコータイパーを叩いてました。髭が生えていたね。

――そうでした。そのころ、導入セミナーのお手伝いをしていたのです。

石川 まだ若かったよね。私も若かった。それで、すぐ入会しようと思ったけれども、ある幹部職員に反対され、彼を辞めさせた後の昭和48年6月30日に、入会の判子をつきました。それが私の運命の岐路でした。

――飯塚毅先生の実地講習会を受けましたか。

石川 私は受けていません。そのころはもう、東京での実地講習会をされていませんでした。

昭和50年ごろでしょうか、城南計算センターを設立するため横浜のパシフィックホテルに飯塚毅先生をお招きして決起大会を開いたときのこと、ご講演の中で先生は、「都心は地域の連帯性がない。したがって、このセンターはできないだろう」と断言されました。このときは悔しかったね。だけど、言われてみればその通り、見事に喝破されました。結局、計算センターは、上野の近くにできたのでした。

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