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飯塚毅博士のプロフィール-2少年時代飯塚毅博士は大正7年(1918年)、栃木県鹿沼町(現鹿沼市)で父・飯塚四朗、母・勝の間に一人っ子として生まれた。生家は布団店で、父四朗は腕の良い布団職人だった。 小学校1年生で7歳の時に自転車事故にあい入院。小学校時代は運動会の参加も免除されるほどの虚弱児童だった。昭和6年、鹿沼農商学校商科に入学。成績は最優秀だったが、意思力の弱さをいつも嘆いていた。15歳のときに立正大学片山随英氏と出逢い、教えられた毎日30杯の水かぶりの習慣が、次第に飯塚少年の心身を鍛えていった。昭和10年、16歳の頃、那須雲巖寺に名僧がいるとの評判を聞き雲巖寺を訪ねた。植木義雄老師の大きさ、その無類の強さと鋭さに魅了されて、16歳と17歳の夏休みも雲巖寺で過ごし坐禅に励んだ。以後植木義雄老師が97歳で遷化する昭和42年まで32年にわたって強い師弟関係に結ばれた。 青年時代昭和11年4月、鹿沼農商を優秀な成績で卒業し、福島高等商業学校に無試験で入学。2年生の時に大隅宗演和尚に頼み満願寺に下宿。寸暇を惜しんで坐禅を組み、寝る間を惜しんで東西の哲学書・倫理学・心理学の原書と格闘した。 昭和14年、福島高商を卒業し東北帝国大学に入学。成績は学年のトップで、東大の末延三次博士の奨学資金を与えられた。 昭和16年秋、植木義雄老師から見性(禅門で師から自己の本性を見きわめたと認められること)を許される。植木義雄老師は「更に参ぜよ30年」と諭した。 16年の暮れ、恩師榊原明治郎教授夫妻を媒酌人に東京女子大の学生だった河森るな子氏と結婚。昭和18年2月に長男真玄が誕生。2ヵ月後、東北帝国大学を繰り上げ卒業し、応召され東部40部隊に入営。第16方面司令部で有明海沿岸の金峰山の地下陣地構築にあたり、そこで終戦を迎えた。 飯塚毅会計事務所を設立昭和20年9月18日復員。昭和21年4月1日、鹿沼町に「飯塚毅会計事務所」の看板を掲げた。開業当座は顧客はゼロ。欧米各国の税法・会計学等を深く研究する中で、企業に出向いて、会計記録をチェックし、会計記録の正確性等を確認・指導する「巡回監査」の手法を確立。さらにチェックリスト活用の意義を知り、業務管理文書(マニュアル)群を定め、業務品質の標準化と職員教育に努めた。多くの会計事務所が、起票代行から税務申告書作成まで「丸抱え」だった時代に、巡回監査を基本に据えたその業務品質は時代の先端をいくものだった。次第に関与先の数も増え、昭和35年頃には、栃木県下有数の規模の会計事務所へと成長をとげていた。 | |||||||||