|
自己探求の言葉-1本当の自分を知れ世の中の多くの人は、自分の頭とか心情で捉えている自分の映像を、自分だと思っています。だが良く考えてみましょう。自分が頭の中に描いている「自分」は、描かれた自分であって、描く方の自分ではありません。多くの人は、描かれた自分の映像のもつ失敗や無学ぶりに落胆したり、悲しんだり、自分が嫌になったりしています。誤解にもとづく一種の遊びをやっているわけです。 こういう遊びをやって、自分をだましている人というのは、TKCの中にも相当数いるのではないか、と私は思います。それは、真剣に、本当の自分とはどれなのだ、という問題意識のもとに、自分の真相の探求をやらないからなのですね。 1917年に、オーストリアの精神科医のジークムント・フロイトは、『精神分析学入門』という本を出版しました。彼はその226頁のところで「自我は決して、我が家の主人公ではないのだ」といいました。 なぜでしょう。 彼は19世紀の哲学者ショーペンハウエルの著作を読み、とくに『余録と補遺』という本を読んで、人間の行動は、人間の認識とは関係がないということを知ったんです。ショーペンハウエルによれば、人間の行動というものは、その人間の本能に根差す「内面的衝動」(innern Impuls)によって決められるものであって、正確な認識などにもとづくものではない。両者は関係がないんだ、といったのです(同書559頁)。 彼は人間の夢というものの探求の結果これをつきとめたのですが、フロイトは、この本から刺激を得て、夢とノイローゼの研究に没頭し、「自分が自分だと思っている自分は、実は自分の主人公じゃないのだ」、自分の行動決定は、自分が自分だと思っているものが決めるのではなく、自分の内部の無意識部分が決めるんだ、ということを発見し、人間の意識というものを、意識、無意識、前意識という三重構造をもったものだ、と確信するようになり、前記の本を出版したのですが、この説は、現在の大脳医学でその正しさが立証されたのです。 自分の意識というものには三重構造がある。いままで自分だと思っていたものは、行動主体としての自分ではなく、単に、自分の観念が描いた自分でしかない。では本当の俺はどれなのだ、これが実は禅の最大課題なのです。本当の俺とはどれなのだ、という課題を、生活の正面に据えて探求する。これが禅というものだったのです。 今ようにいいますと、それが自己探求というものです。ソクラテスが紀元前五世紀頃、白い石ばかりのアテネの街頭に立って、「青年よ汝自身を知れ」と叫んだ、その自分を知ること、それが禅の課題でもあったのでした。それは思ったよりも大問題です。「人生は不可解だ」といって華厳の滝から身を投げた青年もいたくらいですから、大問題ぶりが分りましょう。つまり、本当のあなたはどれか、という点を突き止めることが自分の生活の原点なのです。(『自己探求』飯塚毅著・TKC出版) |
|||||||||||