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自己探求の言葉-3対象物のない心の集中状態(the objectless concentration of mind)趙州の無字のような精神的課題を一点もつこと、命がけの真剣な探求が必要なこと、そして一日の全生活現象の真只中で探求すること、こういうことが自己探求に当たっては大切なのだ、ということは既にお分りでしょう。 では、もっと突っ込んで、できるだけ分り易く、もう少し申し上げてみましょう。 趙州の無字のような課題がよい、というのは、課題が非常に端的で、徒な思考を必要としない、という特長があるからです。禅の真髄は自心の本質を探求して、その真相を確証する点にあるのですから、あれかこれかと思い悩ませるような公案よりは、端的に自己の本心に切り込ませるような公案の方が、実効性があると考えてよいでしょう。この点、趙州の無字だけでよいといった大慧禅師の見識は、相当なものだったことが分るでしょう。 しかも、その無というのは、有無の無ではない、相対的な意識、概念としての無ではない。それらを超えた、実体としての、絶対的な無をつかんで持ってこい、という意味ですから、無の字義解釈を求めているのではない。有無の差別を超えた無であり、あくまでも無といいながら、文字としての無ではなく、実体としての無を求めよ、というわけです。 無という概念を媒体としながら、文字としての無を通り越した、実体としての無を求めるわけですから、最初は「無とは如何、無とは如何」と自分に早鐘の如く問いかけながら、全身が無字と一つになり、やがて、その無字を通り越してその先に行かねばなりません。 別言しますと、己が心に対象物が全く無い状態、これが実体としての無だ、ということが理解できるでしょう。こういう理解が先ず重要なのです。これが非常に時間経済に役立ちます。現代の教育が進んだ時代にあっては、こういう構造上の理解といいますか、心の構造の、どういう状態を狙っているのか、を先につかんでおく必要があります。 自分の心が、心の対象物をもたない状態を、別名、無念無想ともいいます。その状態こそが釈尊にいわせれば如来の状態、即ち、悟りを開いた人の状態だ、ということですから、その状態は万事に通用します。先に申し上げた、一日の全生活現象の真只中で探求する、ということが可能となります。そこには、ひとかけらの自我意識も、打算心もない、全くの無心ですから、実は探求するという言葉も余計なんです。 一日中、全生活現象の中にあって、無心である、ということですから、探求するというような心のことさらな構えも要らないわけです。計算するときでも、監査するときでも、掃除をするときでも、あるいはお茶を入れるときでも、要するに生活の全場面で、無心の中で行動する。別言すると、生活の全場面で、生活の対象物と一つに成り切って生活する。こういう風に、生活の全場面で、心に対象物をもたない(心が何ものにも住著していない)で、而も心が集中状態にある。この点を釈尊は阿含経の中で“the objectless concentration of mind”(Some Sayings of the Buddha, Translated by F. L. Woodward, Oxford University Press, 1995.340頁)“対象物のない心の集中状態”といい、これが如来(Tathāgata)の心境なのだよと教えたわけです。 6年間の必死の探求の果てに、釈尊が到達した心境はこれだったわけです。(『自己探求』飯塚毅著・TKC出版) | |||||||||||