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自己探求の言葉-4
二念を継ぐな

飯塚毅博士の揮毫
自己を探求する、そのやり方は多くの人が必ずしも成功していませんので、もう一回だけ、繰り返して、問題としてお話ししましょう。
無念無想になること、生活の対象物と常に一つになって暮らすこと、そこに自我の意識を一点も持たないこと、ということは言うは易いのですが、実践となるとなかなかできないものです。
つまり執念に近い自己訓練が普通はどうしても必要になります。その自己訓練の仕方なんですが、人間は言語というものを使って、いろいろとものを考える動物ですから、ふり返ってみますと、観念が次から次へと湧いてきて、無念無想とは、とても縁が遠い生活になってしまいがちです。
そこで、禅宗、特に臨済宗の中興の祖といわれた白隠禅師は、無心になる方法の最短距離として、二念を継ぐな、ということを教えました。やってみると、無念無想への最短距離はこれだったなということが納得できます。
要するにきれいな女性が目についたとします。「あ、きれいだな」という初念が湧いてきます。ここが急所です。普通ですと、ああいうきれいな女性とは付き合ってみたいな、いや、ちょっと抱きしめたら気分が良いだろうな、とかいろいろな観念が次から次へと湧いてきます。別言しますと、初念で終わらずに、二念、三念、四念と観念がつながって出てくるものです。それでは修養にならないのだ。
初念の次に二念を継いではいけない。初念だけで終わる工夫をする。
すると不思議や不思議、初念は静かにすっと消えてゆく。ここのところの自己訓練を頻繁にやる。そうすると自然と無心の中に入っていける。
私の師の雲巖寺の植木義雄老師は、ここのところの修練を百練千鍛といいました。3回や5回やってできないからもう終わりだというのでは、一生達人にはなれないでしょう。老師は、百回練習し、千回鍛練しなさいと言ったのです。古人の言葉には、千練万鍛という言葉もあります。要は回数を数える点に意味があるのではなく、それほど頻繁に自分で修練しなさいということなんですね。
この二念を継がないという点は、公案探求とは離れて、日常生活上で最大に重要な修行点だわいと感じるこの頃です。(『自己探求』飯塚毅著・TKC出版)
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