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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
激動の昭和史を生きる-2
指導者は原理原則を持て
原理原則を知る
飯塚ところで田中先生は今、74歳ですね。若い、実にはつらつとしておられる。私は12歳年下の62歳ですよ。
田中いや、社会的経験で言うと同じですよ、11年も投獄されていたのですから……あなたと同年です(笑)
今日は非常にうれしい。人に会ったという感じがする。人物にだ。志を同じうする人に会った。失礼な言い分ですが、一言聞くとピンと来ます。刑務所でもいつも思ってた「士は巳を知る者のために死す」という言葉を。
飯塚先生お国どこ?
飯塚栃木県です。
田中そうだと思った。雲巌寺、あそこにおいでになっていますね。
飯塚32年間通いました。
本誌雲巌寺で暮したんです。ちょっとそこから話を始めてください。ズバッと当てられたところから。
田中雲巌寺は宋から来られた兀菴和尚の宗風ですね。
飯塚ええ、無学祖元の弟子、佛國國師ですね。
田中それから兀菴。無学祖元は鎌倉の建長寺で時宗を打ち出した、あの宗風ですよ、私も。三島の竜沢寺。山本玄峰にお世話になった。20年。あの会下です。
飯塚驚いたな、これは。玄峰老師は亡くなられましたけど、国宝的な存在だった。
田中最後まで私は玄峰老師についた。20年間。
飯塚私は雲巌寺、植木義雄老師に32年間参禅しました。
田中そうですか。よく承っておりました。あそこにお伺いしたことがございます。参禅はいたしませんが、相見いたしました。それから松島の……。
飯塚瑞巌寺。どなたですか。
田中三浦承天、その跡取りがおりましたね、途中で火事か何か出してやめられた。
飯塚佐々木承周、いまアメリカに行っています。
田中そうですか。三浦さんは盤龍老師の会下で妙心寺に官長になって行かれたでしょう。あの前、行きました。あっちこっち歩いてないです。玄峰老師一本槍で来ました。
飯塚私は松島の三浦承天老師に、昭和17年秋から18年の春にかけて参禅したことがあります。
田中そのころは私は三島、竜沢寺です。16年から3年間、雲水4年間。刑務所に11年おって、出て来てあくる日に玄峰老師のところに行った。
本誌飯塚は那須の雲巌寺におって、それから東北大へ行って、松島の瑞巌寺でまた暮していたわけです。
飯塚刑務所生活というのは、自己鍛練の最高の場ですからね。
田中有難い言葉だ。
飯塚大変なことですよ。
田中非常に今日、楽しいね。
飯塚野球の「飛んでくる球が止まる」と言ったのは、川上さんじゃないですか。
田中どの選手もやっぱり、悩んで悩んで――みんなスランプになって悩みますね。壁にぶつかる、踏み破る、また壁だ……連続でしょう、それの。後ろを振り返ると「これだけ高く登ったか」と思うけど、前は絶壁ですよね。
飯塚全く、全く。
田中それで、実際悩んで、「俺はもうこれでいいんだ」というふうに勝手に決めたり、もうあきらめちまったりしない、大悲心を持って、勇猛心を持って進む者のみが先へ進んでいきますからね。
飯塚そういうことですね。
田中そういう体験を積んできまして、今また日本が壁にぶち当たっている。世界人類が本当の壁にぶち当たっています。かつての西欧合理主義、その一部であるマルクス主義、社会主義、これら全部がぶち当たっています。そういうことが、他局にあるところの西洋的な極右翼の連中の考えですね。ずいぶん多いですよ。これも全く西欧的ですからね。軍のナチスと組んだときのイデオロギーなんていうのは、これは完全な西欧合理主義ですよ。マルクス主義と同じ。一体ですからね。母体が同じだから。これらをどう転換させていくか。それがなければ人類の滅亡に通じるわけです。
飯塚そうですね。
田中あらゆる生あるものは、流転し、死滅していく。何も発展するとは限りませんよ。停滞もあれば、後退もあれば、死滅もある。それが全体として宇宙を形成し、これは絶対と言えるでしょうね。しかし、その一つ一つは全部絶対じゃない。絶えず、死滅し、生成、変化していくものですね。生成流転ですよね。だから、“発展”という考えで問題を見たら間違いだということですね。死滅していく。衰退もある。後退すらも。
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