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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
激動の昭和史を生きる-4
指導者は原理原則を持て
マルクスを超える
飯塚『夜船閑話』ですな。
話を伺いますと、先生とちょっとステップが私はずれていますね。先生はドイツ観念論をやられて、それから共産党に入っちゃった。それで11年間苦労なさって、出て来てすぐさま禅寺へ飛び込んでやった。
私は昭和10年に行って、3年間待たされて、それから4年目に参禅が許されて、そして昭和16年には見性を許されて、ちょうどそのころ、東北大学の学生でした、マルクスの「資本論」が教科書だった。
私は禅の体験から見て、どうもマルクスの理論は受けつけられないと。特に弱点は何かというと、認識論だ。つまりこれはアプ・ビルド・テオリー、模写説。それはカント以前、ヒューム時代の思想だ。ここにぼくは1つの弱点を見出した。
田中アプリオリーという考え方ですかね。
飯塚もう1つは唯物史観の問題でありますけれども、いわゆる存在が意識を規定するのか、意識が存在を規定するのかという話がありますけれども、しかしマルクスは同時に言語というものは社会的産物であるといっている。マルクスは単純なる唯物論者じゃなくて、物質的なるものというやつを根源的なものだと主張しているわけですから。そうすると言語は社会的産物なるがゆえに物質的なものである、ということになる。そうすると意識が存在を規定するのか、存在が意識を規定するのかという問題提起をマルクスはしているけれども、それはちょっとおかしい。
田中二律背反ですよ、いつでも彼のいうのは。
飯塚つまり人間の意識から言語を取り去った場合に、意識形成があり得るのか。ないだろう。ということになれば、実は言語は物質的なものに該当するんだから、マルクスにおいては。そうすると意識が存在を規定するのか、存在が意識を規定するのかというのは実はトリックであって、存在が存在を規定するという、一種のトートロギー、つまり同語反復になるということに私は気がついたわけです。それで私は禅修業が先行しておりましたので、早くいえばそれがじゃまになって、マルクスを信奉できなかったわけなんです。
それともう1つは、ヘーゲルの理論を読んでいて、マルクスは素直にヘーゲルの理論を理解しているとは思えないという点です。そういう点がありまして、私は参禅のほうが先だったものですから先生とは逆になっちゃって、そうでなかったらおそらく私も共産党へ入ってただろうと思うんです。それで私は私なりにマルクスをのりこえたわけですね。
それを戦後になってから、ぼくは東大のマルクス経済学の教授にいうたんですよ。マルクスの認識論を調べておかしいと思わんか。アプ・ビルト・テオリーだよと。つまリカント以前の認識論、ヒユームの認識論を継承しているんだ。「資本論」はその上に立っているんだ、それを何とも思わんのか、といった。
田中何といいました?
飯塚まいったと。そういう角度からの発想をしなかった、というわけなんですよ。それで「あんた、学者でありながら、マルクスの『資本論』しか読んでないから、そんなことになるんじゃないか。学者としてちょっとおかしい」。そんなことかありまして、私はテキストがマルクスの「資本論」であったにもかかわらず、共産党に入らないで済んだ。
おそらく私か共産党に入っていれば、先生のお母さまと同じように、私の母も腹を切って死んだと思う。というのは、私の母は私1人しか生んでないから。
田中同じだ。私も一人子だ。
飯塚だから私のことを命の綱と思っているんだ。だからぼくは母の幸せを考えなきゃいかんから、それでぼくは踏みとどまったわけよ。どうも禅の思想と相入れんと、マルクスの理論は。そういうことで、ぼくはぼくなりにマルクスを超えて来たわけです。
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