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8・15終戦秘話-4

憲兵の監視くぐり終戦工作

飯塚両首脳がそうしたジョークをまじえて話し合う、というのはいい光景ですね。

加瀬アデナウアー政権の時代に、ボンへゆく時は、いつも吉田さんから伝言を頼まれましたが、アデナウアーの机の上には、天皇陛下、吉田さん、ダレス米国務長官の写真があるのです。私は不意にゆきましたから、私が来ると思ってそうしているのではないのですよ。

「天皇陛下には感銘を受けた」と言っていました。吉田さんについては――当時引退して大磯にいたわけですが――「吉田君はちょっとリモートコントロールしすぎるね。政治家は、やめたらきれいにやめるものだ、と帰ったら伝えてくれ給え」という。もっとも、そういうアデナウアー自身は、なかなかやめなかったのですがね(笑)。

ダレスさんについては、「ダレスさんのおかげで、ドイツはここまで来た」と感謝していました。

本誌アデナウアーはそう言っていましたか。日本人の場合は、「ダレスのお陰」というのは、今でもなかなか理解されていないような気がします。

加瀬そうですね。

ダレスは、こわもてのするコチコチな反共主義者ということになっていますが、ユーモアもウィットもある面白い人でしたよ。もともとプロテスタントで宗教的な人です。悪くするとドイツが滅ぶところだったのを、アデナウアーの外交を支持したので、感謝されたのでしょう。

吉田さんもダレスを「講和の恩人」といっています。この2人にも共通点がありました。

飯塚アデナウアーが指導してできたドイツのグルントゲゼッツ――基本法には「ドイツ国民が自分の意思で憲法をもつようになった時は、この基本法は廃止する」とありますね。東西両ドイツの統一が悲願としてあるからでしょうが……。

加瀬それがドイツの偉いところです。それと、ドイツは戦後、日本より遅れて憲法をつくりました。

飯塚1949年ですね。

加瀬日本は終戦のどさくさに、ノーといえない状態で占領軍がつくった憲法を与えられました。

飯塚おっしゃる通りです。

しかも、奇怪なことに、あれだけの全文改訂の新憲法であるのに、これは旧憲法の改正である、という形になっています。

加瀬今は、憲法改正というのは当然のことだと思うのですが、それを言うと「反動」といわれ、改正反対は進歩的文化人ということになる。

飯塚ドイツは今までに基本法を9回位改正していますね。

加瀬そう、度々やっていますね。日本の憲法にも改正条項はあるのですからね。

マッカーサーが、吉田総理の時、書簡を寄越して、「この憲法については不満も不安もあるだろう、だから一両年位したらあなた方の手で改正したらよいだろう」と言っているのですよ。外国人の考え方からすれば、改正は当然のことなんです。

本誌子供が成長して背丈が伸びたら、大きなサイズの服にかえるのと同じことですね。

ところで、いよいよ核心のお話をうかがうことになりますが、まず、20年8月15日はどうしてられましたか。

加瀬東郷茂徳外相の下で北米課長、英帝国課長、秘書官の3つを兼ねていました。

鈴木貫太郎大将が総理大臣になったのが20年の4月7日で、外相は重光さんから東郷さんに交代したわけですね。私はもともと「アメリカ育ち」――アメリカ勤務が長いということですが、終戦となれば英米両国相手の交渉になるから、北米課と英帝国課を担当せよということだったんです。

そのほかに貴族院の書記官と内閣書記官もやっていました。といいますのは、私はその前から終戦工作にたずさわっていたわけですが、貴族院議員にはまだもののわかっている人がいたのと、書記官長の小林次郎さんが立派な人で私と話が合って、ぜひやってくれということだったのです。また内閣書記官をやっていると、いつでも首相官邸へ入ってゆけますからね。当時は、憲兵政治の名残りがありましたから、その監視をくぐって工作をつづける必要があったわけです。

だから、私、肩書や勲章が嫌いなんで、人に「何をしていますか」とたずねられると「鼠小僧次郎吉の位だ」と答えます。みなあっけにとられますがね(笑)。

要するに仕事と目的のため、いろんな肩書をもっていましたが、本職は外務大臣秘書官だったといっていいでしょう。

飯塚先生の秘書官歴はお長いですね。

加瀬外務省で一番長いでしょう。なん度かやめようと思ったのですが、どういうわけかやめられなくて……。

戦争の前年、1940年の秋、ロンドンから帰国しました。ロンドンでは吉田茂大使から可愛がられましたが、第2次近衛内閣の外相になった松岡洋右さんに呼ばれて帰り、その秘書官をやりました。そのため松岡さんについてドイツやイタリーヘゆき、ヒトラーやムッソリーニに会ったのです。

本誌先生の幅広いセンスと語学力、マナーがぜひ必要だったのでしょう。

加瀬それは少し、オーバーステートメントでして、まあ便利な整理ダンスくらいなものでしょう。いつの御前会議はどうだったっていうことを私は知っていたので便利だったのですよ。

松岡さんの時に日米交渉が行き詰まり、豊田外相がちょっと出ます。近衛さんがやめて東条内閣になると東郷外相です。その後は重光さんと東郷さんが交代で外相をやりますが、私はそのたびに秘書官旧の如しでした。アメリカ課長は日米交渉が始まった時からやっていました。

余談になりますが、私は毎年8月、終戦記念日前後はテレビや雑誌のお相手が多いのです。今度の映画「東京裁判」にも冒頭に私が出てきます。

7月26日にポツダム宣言が出て、8月9日が第1回御前会議、14日に第2回御前会議ですね。私は外務大臣の秘書官として第2回の時などは宮中で徹夜しました。それで当時のことをよく存じているのですが、日本の歴史家、あるいは評論家はいわゆる終戦を、なんというか、取り違えているような感じを受けるのです。

大宅壮一君のまとめた『日本の一番長い日』は、8月15日そのものに焦点を合せていますし、その他の多くの本は主として第1回、第2回の御前会議を対象にしています。それはそれで間違いないのですが、私にいわせると9日から15日に至る1週間を可能にした準備期間全体がドラマなんです。

これを忠臣蔵にたとえますとね、15日の玉音放送は吉良邸討入りの場なんですね。しかし、忠臣蔵の本当の見所は、大石が山科で遊んだり、勘平が腹を切ったり、小間物屋や魚屋になって吉良邸をさぐったりという、粒々たる苦心の積み重ね――いいかえれば準備期間ですわね。

飯塚うむ。そうですね。

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