
ホーム > [飯塚毅博士と私] バンガード対談 > “第三の開国”に勇気を-3
(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
“第三の開国”に勇気を-3
海外援助は日本の“立国の条件”
飯塚そうした貿易不均衡の是正を求められる一方、日本は「経済力に応じた国際義務を果せ」とも要請されていますね。日本の海外援助は案外多いな、と思っているのですが、海外経済協力基金総裁をおつとめになった先生のお考えはいかがですか。
大来日本の政府開発援助(ODA)はいま年間約40億ドルでかなりの額です。しかしGNP比では0.33%で、自由主義世界先進国の集まりであるOECD(経済協力開発機構)の中では13、4番目ですよ。
海外援助はいまや貿易と並んで日本の“立国の条件”です。日本は食糧、エネルギーその他の資源をほとんど海外に依存し、貿易のほぼ半分は発展途上国が相手ですから、それらの国々が豊かになることは日本にとっても必要なことなのです。
ちなみに、海外経済協力基金は投融資残高が2兆円を超え、いまや世銀に次ぐ世界第2の開発金融機関なんですよ。
飯塚ほう。それは心強い話です。
先生はエカフェ(国連アジア極東経済委員会)についても日本の草分けですね。日本のエカフェ加盟は講和条約直後ですから、ご苦心があったことと思いますが……。
大来昭和25年、私は安本から派遣されて5ヵ月間欧米視察の旅をしました。その帰途バンコクのエカフェ事務局に立ち寄ったのが最初の縁です。
翌26年パキスタンで開かれた総会に出席しました。出席といってもまだ占頷下ですから、オブザーバーのGHQ職員のそのまた随員という資格でした。GHQ職員の援護でパキスタン人の議長から許可が出たので、同行の村田恒さん(通産省、後に三井物産副社長)が「ミスター・チェアマン」と挙手して発言しようとした途端、ソ連代表から「待った」がかかりましてね。
飯塚ほう。
大来われわれに発言を許すかどうかで1時間ほど討論したあげく、イギリスなど数ヵ国も反対して、結局ノーになりました。だから3週間あまりの会期中、日本人出席者の発言は「ミスター・チェアマン」だけ(笑)。
その直前、ラホール大学を訪れたとき、案内してくれた法学部長は「日本人は磔刑(はりつけ)にあったキリストのようなものだ。犠牲になってアジア諸国の独立を助けてくれた」とわれわれを歓迎してくれたものですが、戦った相手のイギリスやソ連はまた別ですからね。
飯塚なるほど。貴重なお話ですね。それから30余年、再び攻守所を代えた感がありますが、時々思い出す必要がありますね。
大来おっしゃる通りです。
日本は翌27年4月の講和条約発効を待ってエカフェに加盟しました。私はエカフェの事務局長から事務局入りを勧誘され、また経済安定本部が経済審議庁に縮小改組されたのを機会にエカフェヘ出向したのですが、フィリピン人の同僚は3ヵ月間口をきいてくれませんでしたよ。後では親しくなりましたがね。
飯塚エカフェの公用語は英語でしょう?
先生は当時からたんのうでいらっしゃったのですか。
大来朝から晩まで英語を使わなければならないので、半年くらいは苦労しました。
しかし、この時身につけた英語が後で非常に役に立ちました。
飯塚先生はいまや国際的“賢人”の1人で通っておられますが、それはエカフェが出発点だったのですね。
前ページ 1 2 3 4 5 6 7 8 次ページ
(3/8)