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飯塚毅先生との出会い〜物故会員の「私を語る」より〜-2

一語一語が情熱の迸りだった

関信会 奥山素章

 

税理士事務所を開いて約20年近くが過ぎようとする昭和45年、大きな転機が訪れた。その頃、関与先の数は200件、職員数は十人そこそこの規模にはなっていた。しかし、仕事の中身についてはお寒い限りで、関与先との馴れ合いも強く、何かあれば酒を一杯飲んで解決という体質だった。新聞紙上でつまらぬ脱税事件が報じられ、その片棒を担いだ税理士の名が出るのを見るにつけても、自分が絶対にそうならないという保証はないような気がした。更に加えて息子が公認会計士試験に合格したことにも影響された。同じ道を行く息子に胸を張れる内容の仕事がしたい。それやこれやの思いを抱いているときに飯塚毅会長の話を聞きTKCを知った。

「このままではわが国の職業会計人は集団死滅の道を辿る」。そう叫ぶ飯塚毅会長の講演を聴いて目から鱗が落ちる思いがし、TKCへの入会を即決断した。そのとき聞いた飯塚毅会長の一語一語はまさに情熱の迸りだった。

早いもので開業してからTKCに入るまでが20年、TKCに入ってからが更に20年経過し、平成3年1月には事務所の四十周年を記念して感謝の催しをやらせていただいた。TKCの方も長らく関信会会長、全国会理事等を拝命してきたが、平成4年9月に老害と言われぬうちに引退させていただいた。

若い頃から人と話すのが苦手で、人のいない北海道の原野や、アマゾンの奥地で生活したいと願っていたのだが、人生とは皮肉なもので、人との付き合いなしでは成り立たない職業に就いてしまった。人前で挨拶したりするのも得意なほうではなかったが、ある結婚式に出たときに、花嫁の父親が訥々と語るのを聞いて感動した。そうか、言葉を飾らずに、気取らずに思ったことだけを言えばいいんだなと気付いた。馬鹿と言おうが利口と言おうが中身は変わらないのだ。それ以来人前で話すことが少しも苦ではなくなった。

税理士という職業は親や兄弟にも言わない人の財産を任される仕事である。だからそれだけの信頼を得るためには、人をうらぎらない誠実さと共に多面的な勉強が必要とされることは言うまでもない。しかも、財力や権力におもねらず、中小零細企業を助けるというのが税理士本来のあり方だと思う。その意味でもTKCの果たす役割は大きい。しかし、TKCといえども人間の組織である以上、注意しなければならない。一番怖いことは批判ができなくなることだ。仲良しクラブになってはいけない。腹に思ったことは何でも言える風通しのよさが必要だ。世界のホンダを造った故本田宗一郎氏は、組織は常に大嵐に洗われなければならないという趣旨のことを書いているがTKCもまたしかりと考える。(『TKC会報』平成5年1月号 肩書きは掲載当時)

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