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飯塚毅先生との出会い〜物故会員の「私を語る」より〜-5

電話口で息を呑んだ飯塚毅先生

神奈川会 関谷義久

 

私が税理士事務所を開業したのは昭和43年3月のことである。いまのラップトップ型パソコンより一回り大きな真空管表示の電卓が出回りはじめたときで、四則演算機能だけなのに価格が16万5千円もした。もっともこれがその1年前に発売されたときは35万円だった。いま千円札1枚でも買えることを思うと、まさに隔世不思議の感ありだが、間もなくコンピュータ講座が電算機メーカーによって横浜で開催されるようになった。メーカーの講習会はプログラムや言語に関するものが多く、馴染みにくいものであったが、昭和44年に入ると先達の会計人を講師とするコンピュータ講習会が開かれるようになり、私は知られる限り必ず参加して電算機の知識吸収に努めているときだった。昭和44年11月17日横浜馬車道の三菱信託銀行で税理士会主催によって『電算機利用による会計事務所の合理化』のテキストを基に飯塚毅先生の講義があった。私を感激させたのは電算機のことではなく、「人生の一回性」を熱っぽく説く講師の「人間性」そのものであった。それまでの講師たちとは全く趣を異にするもので、午後1時から4時間半にわたった熱弁が一瞬電撃のように私の全身の血を湧かせて走り過ぎたのである。

当日、飯塚毅先生の講演が終わった5時半から懇親会があったのに、これに参加できなかったのが残念で年が明けて開催された東京商工会議所ホールでの飯塚毅先生の講演をもう一度聴きに行った。

「この人の勧めに従い、この人と一緒にやっていこう!」と私の心は前回横浜で話を聴いた11月17日の会場ですでに決まっていたが「電算機を維持するには百人の仲間が必要だ」と訴える講師の話とその情熱にもう一度触れて己れ自身を確認したかったのである。それは昭和45年2月13日のことで、広い東商ホールにもかかわらずなぜか聴衆はまばらであった。しかし受講者の中に後日TKC出版の社長をされた高橋先生がいた。

この翌朝のことである。チリチリと電話のベルが鳴った。「飯塚毅です。どうです! 入会して私と一緒にやりませんか!」。ふとんから抜け出したばかりの私は思わず時計を見たが、午前7時15分「……」。それから10分間、熱心で必死な飯塚毅先生の入会勧誘呼び掛けがあったのである。そして最後に「関与先は何件お持ちですか?」。私はハッと返答の言葉に詰まった。すでに10年から15年の開業歴で職員数も10人近い同業者から「小企業が多くコンピュータ会計をやるほどの規模じゃない」という言葉が吐かれるのを何度も聞かされていたのである。一緒にやることは11月の出会いで決めていた。しかし関与先数で入会条件にあるかどうかは確認していない。「ハイ7件です」。「……!」、電話の向こうで一瞬、息を呑む様がわかって、答えたこっちもハッと息を呑んだ。

実はこの7件は法人3件個人4件という内容で、当時の同業会計人からみれば電算機会計導入をうんぬんするレベルではなかったのである。

それから3日後、文京の飯塚毅会計事務所で、高橋先生は職員さんを連れ、私は妻と2人で2事務所だけの導入実地講習として飯塚毅先生自身の熱弁を数時間にわたって聴講したのである。(『TKC会報』平成7年2月号 肩書きは掲載当時)

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