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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
勝負の世界は厳しい。チャンピオンを目指しての苦闘こそが栄光をもたらす。
しかし、ひとたびチャンピオンの座に着いた者には、これを打倒せんとする挑戦者に取り囲まれる。チャンピオンとは自らの栄光のためにこれを迎い打ち闘い、敵を倒さねばならない。
人生とは闘いの歴史だ。いくたび倒れても最後の勝利を手にしなければならない。苛酷な運命との出会いだ。
ここに2人の熾烈な戦いの歴史の中で、自らの栄光を守り続けている指導者がいる。
2人の対談には生気のほとばしるものがあり、その談論には勝利の息吹きがあふれた。
スポーツも企業も勝利をめざす。その共通の理念の中に、読者は指導者の魂を見出すことだろう。
ペナントレースの開幕を前にして、野球談義の中にあなたは何を感じとるか……。(編集主幹・木場康治)
我が道を征く-1
−勝者の論理−
対談者(敬称略・順不同)
川上哲治(野球評論家・元読売巨人軍監督)
飯塚 毅(TKC全国会会長・行政管理庁プライバシー保護研究会委員)
※肩書きや発言内容は対談当時のまま掲載しています。
川上理論は王者の原理だ!
飯塚先生の書かれた新著『悪の管理学』を拝読させていただきましたが、実はこの中で先生のお書きになっておられることが企業経営にもそのまま当てはまるので驚いているんですよ。
川上そうですか。そうおっしゃっていただけると光栄です。
飯塚それと同時に、私は、これを拝見しまして、ドイツのエッケルマンという人が書いた『Gesprach mit Goethe』という本を思い出したんです。この本は、ドイツの文豪ゲーテと親交のあったエッケルマンが、ゲーテとの交際を克明に綴った有名な本ですけれども、その中でゲーテが後輩に残した言葉として「もしきみたちが世の中で第一級の人間になろうとするならば、自分の打ち込むものはこれしかないというところまで自分自身を限定して、それに全精力を投入しろ。そういう体験を持っていれば、相当の応用能力もつくんだ」と、こういう言葉があるんです。先生が野球界に数々の足跡を残され、「野球の神様」とか「野球の鬼」といった異名をとるようになったのも、結局先生はご自分を非常に限定されて、それに全身全霊を投入されたからだと思います。
川上私には野球しかなかったですからね。
飯塚いやいや、一芸に秀でるということは並大抵の努力ではできないことですよ。
川上私の場合は、小学校4年生から正選手でした。4年生のときは右翼手でしたが、5年生、6年生はピッチャーをやりまして、そのピッチャーとしての実績が認められて熊本工業の後援会から呼ばれたわけです。小学校6年生といいますと、昭和6年か7年ころでしたが、このころは社会全体が非常に貧乏な時代だったですね。
飯塚そうそう、貧しい時代でした。
川上私の家も貧乏で、中学に進むにしても5円の月謝が払えない状態でしたから、私は小学校を終えたら母親を助けて百姓をしようと決心していたんです。ところが、熊本工業の野球部の後援会から、野球を続けるんであれば月謝は免除してやるという誘いを受けまして、私は、あきらめていた野球がまた続けられるし、中等教育も受けられるということで、喜んで熊本工業に行ったわけです。
野球で入ったわけですから、もちろん野球を一生懸命やらなければいけませんが、自分のお金で学校に行ったわけではありませんので、素行面でも立派でなければいけませんし、勉強も熱心にやりました。そして中学校5年生のときには夏の甲子園大会に出場しまして優勝戦まで進んだんです。優勝戦では敗れましたが、この甲子園での活躍がプロ野球のスカウトに評価されまして、巨人軍から誘いを受けたわけです。当時、契約金が300円で給料は110円でした。普通で入れば月給は40円くらいでしたから、条件は非常によかったわけです。そこで私は、兵役に行くまではプロ野球をやって家を助けてやろう、そして兵役を終えて帰ってきたら、また別の職業を選べばよいと考えまして、巨人軍に入団したんです。そういうことですから、私の人生はまったく野球人生なんです。ですから飯塚先生がおっしゃるように、それこそこれに限定しまして、ほかの社会を私は知らないのですよ。
飯塚いやいや、先生は野球の世界しか知らないとおっしゃるけれども、今度の書物にしても、前に書かれた書物にしても、先生は非常に謙虚な姿勢で書いておられるし、実際、先生がその人生で掴んだ原理というのは、王者の原理であり、最高指導者の原理であると私は思っているんですよ。
川上そうですか。それは恐縮です。
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