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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
歴史の大転換に立ち会って-6
政治家を志して弁論部と合気道
本誌時局柄、緊迫した話が続きましたが(笑)、話題を変えて長官が政治家を志したころに遡って伺いたい。
飯塚政治家としては2代目と聞いていますが。
小渕おやじは事業家でしたが、中年から代議士に出馬しましてね。2勝4敗の成績でした(笑)。
飯塚長官は9回連続当選。出藍の誉れですね(笑)。
小渕新聞記者か作家になりたいと思って早稲田の文学部に入ったのですが、その年におやじが亡くなった。おやじは群馬3区で福田さん、中曽根さんに挟まれながら大体4万票くらい頂いていました。その方々の期待にお応えしたいと、政界入りを決心したわけです。
本誌恵三という名は「天の時、地の利、人の和」の3つに恵まれることを願って父君がつけたと聞いています。
政治の世界をめざすと、早速、雄弁会に入られた。早稲田では名門のクラブですね。
小渕2年上に森喜朗さん(元文相)、1年上に玉沢徳一郎さん(代議士・岩手1区)らがいました。雄弁会に入るのには2通りあります。弁が立つのと下手なのと。私はもちろん後の方ですがね(笑)。
飯塚巧言令色なんとやら、失礼ながら朴訥な長官にはそれなりの味がある(笑)。
小渕そう言って下さる方もいて励まされます。今となっては「地」でゆくしかないわけで(笑)。
本誌政治家の要件は体力だと、合気道やボディビルもおやりになった硬派。合気道はたしか四段とか。
飯塚なるほど。がっちりしておられる、胸から肩にかけてが違う(笑)。
小渕やるとなると徹底する方でしてね。
しかし、体の方だけでなく書道部や観光学会という部にも入りました。これは西武の総帥になっている先輩の堤義明さんが旅行同好会から脱皮させた部です。群馬県は観光地が多いのでそれに備えたわけです。
同郷の学生を集めて群馬早稲田会をつくり初代会長になったりもしました。
飯塚学生時代から早くも人脈づくりですか。いかにも早稲田らしい(笑)。
群馬3区は福田、中曽根両長老のトップ争い――いわゆる上州戦争に加えて社会党書記長の山口代議士もいますね。そこで全国最年少で初当選し、以来連続9回というのはすごい実績だ。
小渕角福戦争さ中の選挙では、福田さんが18万票もとって、こちらは3万9,000票。全国最低の得票で当選という綱渡りもしています(笑)。
とにかく、両横綱に挟まれての選挙戦ですからいつも苦しいですよ。特に最初出たときは26歳。しかも自民党青年部の代表として世界各国を視察し、アメリカではロバート・ケネディさんに会ったりして、帰国したのは選挙の直前でした。ですからもっぱら若さと独身を訴えて……(笑)。
本誌全国最年少で見事当選して、所属したのが佐藤派。
小渕おやじが佐藤さんと同志だった関係です。
本誌若さといえば第2次大平内閣では弱冠42歳で総理府総務長官ですね。
飯塚とにかく、毎回の修羅場で鍛えられているわけだ(笑)。竹下さんが創政会を旗揚げし、田中派が竹下派と二階堂派に分かれたときも、苦心があったでしょう。
小渕当時は田中派の常任幹事会座長として、なんとか円満にバトンタッチをと苦心しました。結局あんな形で決着しましたが。
本誌創政会が出来てからは竹下さんの参謀役。それが官房長官につながったわけですね。
小渕政治資金については、飯塚先生には十分ご理解を頂いていますが、ここでちょっと申しますと、『自由新報』という自民党の機関紙。いまでこそ私の写真も載りますが、当選してから25年間は福田、中曽根両大先輩の写真は出ても、私のは1度も載らないんですよ(笑)。
そのハンディをカバーするためにも、自分で広報活動しなければならない。その費用がばかにならないのです。
飯塚お察しします(笑)。
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