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世界の禅のふるさと日本-5坐禅は目的なし飯塚先生は、さっきの10日間の接心のあと、弟子丸老師から黙道泰元という法名を貰われたそうですね。 森本そのとき、「道元の“道”と“元”を入れときましたよ」と言われたのです。“泰”は泰仙の“泰”とすぐわかったのですが、“黙”は何だろうと思いました。 ちょうどその前に私は東大出版会から『沈黙の言語』という本を出していたので、弟子丸さん、あの本をご存じかなと思ったのです。後になってわかったことですが、実は弟子丸さんの法名が黙堂泰仙。 飯塚ほう。 森本ご自分の名と道元をくっつけて下さったのです。ちょっと良すぎると思うのですが(笑)。 飯塚雲巌寺の植木老師の一番古い弟子の名は元泰でした。 森本昔ヨーロッパのことを泰西といいましたね。“泰”はそこからもとったのだと思います。ヨーロッパで法名を頂いたから。 飯塚お話を伺うと、弟子丸老師が先生をどのように評価していたかがうかがえます。 森本法名をつけて頂くなど、予想もしないことでびっくりしました。 飯塚ところで、きょうは、編集部の方から「本当のしあわせとは何か。どこかで触れてほしい」という“公案”をもらっているのですが(笑)、私はわかりませんね。 先生、ひとつお願いします。 森本私もわかりません。強いていえば、しあわせのことを考えないのがしあわせではないか。 飯塚ずばり、同感です。しあわせが念頭にあるようでは話にならない。しあわせとかしあわせでないとかを超えなくては。 森本しあわせが非常に話題になるとすれば、それは不幸な時代ではないか。 飯塚植木老師はなくなる直前、「臥雲嘯月」という言葉を色紙に遺されました。それが達道の人の生きざまだと思います。 森本弟子丸さんの師匠は澤木興道老師でした。澤木老師の有名なせりふは、僕も録音テープで聞いたのですが、「坐禅して何になるか? 何もならん。そこがええんじゃ」。 飯塚ハハハ。その通り。 森本「世の中は何でも何ぞになると思ってやっている。金が儲かる、ええ女が手に入る、でっかい寺の住職になれるとか。だが、坐禅というのは何もならんのじゃ」と。いい言葉だと思いましたね。 これやると幸福になります。しあわせになりますというものではないですね。 本誌なるほど。しあわせは、いつも結果なんですね。しあわせを、など考えずにやったことの。 飯塚そういうことですね。 | |||||||||||||