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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
世界の禅のふるさと日本-5
坐禅は目的なし
飯塚先生は、さっきの10日間の接心のあと、弟子丸老師から黙道泰元という法名を貰われたそうですね。
森本そのとき、「道元の“道”と“元”を入れときましたよ」と言われたのです。“泰”は泰仙の“泰”とすぐわかったのですが、“黙”は何だろうと思いました。
ちょうどその前に私は東大出版会から『沈黙の言語』という本を出していたので、弟子丸さん、あの本をご存じかなと思ったのです。後になってわかったことですが、実は弟子丸さんの法名が黙堂泰仙。
飯塚ほう。
森本ご自分の名と道元をくっつけて下さったのです。ちょっと良すぎると思うのですが(笑)。
飯塚雲巌寺の植木老師の一番古い弟子の名は元泰でした。
森本昔ヨーロッパのことを泰西といいましたね。“泰”はそこからもとったのだと思います。ヨーロッパで法名を頂いたから。
飯塚お話を伺うと、弟子丸老師が先生をどのように評価していたかがうかがえます。
森本法名をつけて頂くなど、予想もしないことでびっくりしました。
飯塚ところで、きょうは、編集部の方から「本当のしあわせとは何か。どこかで触れてほしい」という“公案”をもらっているのですが(笑)、私はわかりませんね。
先生、ひとつお願いします。
森本私もわかりません。強いていえば、しあわせのことを考えないのがしあわせではないか。
飯塚ずばり、同感です。しあわせが念頭にあるようでは話にならない。しあわせとかしあわせでないとかを超えなくては。
森本しあわせが非常に話題になるとすれば、それは不幸な時代ではないか。
飯塚植木老師はなくなる直前、「臥雲嘯月」という言葉を色紙に遺されました。それが達道の人の生きざまだと思います。
森本弟子丸さんの師匠は澤木興道老師でした。澤木老師の有名なせりふは、僕も録音テープで聞いたのですが、「坐禅して何になるか? 何もならん。そこがええんじゃ」。
飯塚ハハハ。その通り。
森本「世の中は何でも何ぞになると思ってやっている。金が儲かる、ええ女が手に入る、でっかい寺の住職になれるとか。だが、坐禅というのは何もならんのじゃ」と。いい言葉だと思いましたね。
これやると幸福になります。しあわせになりますというものではないですね。
本誌なるほど。しあわせは、いつも結果なんですね。しあわせを、など考えずにやったことの。
飯塚そういうことですね。
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