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教育の根底に“宗教的心情”を-2

「教える、教える」と意識するな

本誌師資相承――師から弟子へ、心から心へ、直接大事なものを伝える――教育の本質を4字でとらえた美しい言葉ですね。

ちょうどいい具合いですから、ぼつぼつきょうの本題に入って頂けませんか。

まず師資相承の仏縁に恵まれ、教育問題にも一家言をおもちの飯塚先生から(笑)。

飯塚うむ、うまく誘導されましたね(笑)。

「教育の本質は師資相承にある」といわれましたが、一般的にいえば教育のアルファは“親子相承”です。そしてそこで主導権をとるというか、まず責任があるのは親でしょう。私は、わが子の心の道行きがわからない親は親たる資格がない、と考えています。私事を申して恐縮ですが、私自身、そういう心構えで3人の子を育てました。

長男と次男は鎌倉・円覚寺の朝比奈宗源老師に参禅させましたが……。

松原ほう、禅とのご縁はいよいよ深いのですね。

飯塚私の家の墓石には、「わが児孫は参禅することを以て必須の条件とする」と彫ってあるのです。先生のような本職の方に笑われそうですが(笑)、私はこのことを非常に大事に思っているのです。

話を戻しますと、その私の息子がある日、「老師から見性(けんしょう)を許された」と申しました。私は驚いてすぐ円覚寺に参りまして、老師に「見性を許された者が習気(じつけ)を持っているのはおかしい。あれは見性でも何でもない」と率直に申しあげました。

松原ほう。朝比奈老師はどういわれましたか。

飯塚老師は、「申し訳ない、見性を許した師家に力がないから、こういうことになったのです」と詫びられました。私はそれを伺って、老師は名僧だという感をいよいよ深くしました。

それから私自身、息子をきたえました。

「お前なんか、まだまだ見性でもなんでもないんだ」と(笑)。

松原お話を伺っていて、お茶の水女子大学の名誉教授で、亡くなられた周郷博先生から伺った話を思い出しました。

周郷先生が幼児教育視察のためヨーロッパヘゆかれた時、ウィーンの幼稚園で通された園長室だったか、応接室に、額に入れて素晴らしい詩が掲げられていました。日本語に訳せば、

  子どもは1冊の本である

  その本からわれわれは何かを読み取り

  なにかを書きこまねばならない

飯塚いい詩ですね。

松原そうでしょう。

これは私にとっては公案のようなもので、これをめぐってよく考えます。

「子どもは1冊の本である」というのは、われわれ東洋人の感覚ですが、西欧でもそうなんですね。

「その本から何かを読みとる」――親は赤ん坊が泣いていれば、「おしめが濡れているんだな」という風に間違いなく読みとります。しかし、子どもが大きくなるにつれて、読みとったつもりで誤読しがちになります。これは親、あるいは学校の先生が、さっきの朝比奈老師の言葉を借りれば「力不足」だからです。

飯塚ずばり、その通りです。

松原次に「何かを書きこまなければならない」ですが、親や先生は知らずにとんでもないことを書きこんでしまったり、十分書きこまないことがしばしばです。いや、というよりは、子の成長によって力が逆転しているから、書きこむことがなくなっているというベきかもしれません。あべこべに親や先生が読まれてしまったりして(笑)………。

そのあたり、私は根本的にいえば、現在は「教育」があまりにもロにされ過ぎる、教える意識が強すぎるのではないかと思うのです。逆説的な言い方ですが……。

教育というのは、子どもから教わることでもあるのです。

飯塚うむ。

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