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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
教育の根底に“宗教的心情”を-5
仏壇、神棚――“形”の大事さ
本誌戦前はどこの家にも仏壇や神棚があって、子どもたちは親を見ならってそれを拝み、祖先や天地自然に感謝する心が養われていました。
ところが、爆撃で都市の住宅が丸焼けになったところから出発した戦後は、核家族化が進んだこともあって、いまでは仏壇や神棚のある家の方が少なくなっています。家の中心はテレビになりました。そういう環境で育った子どもたちは、心情というか情操が変わってきました。
現在、騒がれているいじめや校内暴力、あるいは家庭内暴力はそうした状況と関係があります。
飯塚先生、この点どうお考えでしょうか。
飯塚端的にいえば、広い意味での教育の根底には宗教的なものがほしい、ということですね。
そうなると、私は、現代の禅宗の坊さんが、なぜ松原先生のように街頭に出ないのか、大衆の中に飛びこんでゆかないのか、おおいに不満があると申しあげたい。
TKCの全国13ブロックごとに、私は年に1回講演して回ります。会員の税理士、公認会計士のほか関与先の経営者などこのごろは毎回1,000人ぐらいが聞いてくれますが、私はその折こう話すのです。
――みなさん自分の胸に手を置いて考えてみればすべて自分が空だとわかるでしょう。父母未生(みしょう)以前にあなた方はどこにいたか、それをとことん論理的に追求すればすべて空だと観じられるはずです。形も色も臭いもない、空です。
禅関策進には「さらに二念なからしむべし」とあります。白隠禅師はそれを「二念をつぐな」と言われた。
この2点を徹底しなさい、と。
要するに、この腐敗、混迷した世の中で、いまこそお釈迦様の心に還ることが緊急に必要です。
木場主幹はもっと教育に直結した具体的な話を期待しておられると思いますが、私は、回り道のようでも、そうした根底的なところから考え直すしかないと思うのです。
松原仏壇のない環境についての話は本職の私がするのがよいかもしれませんね(笑)。
1戸の家に床の間がないと落ち着きません。われわれの心も同じことです。それで私は、「心の中に床の間をもとう。その床の間に人生の座右の銘となる“杖ことば”の掛け軸をかけ、時々それを思い出そう。両親の写真、あるいはおもかげをそこに掛けてもよい。家族の写真をポケットに入れているのでもいい」と説いています。
飯塚なるほど。
松原団地向けに小さな仏壇があってもいいですね。扉をあけるとオルゴールのように音楽が鳴るような(笑)。
飯塚それは名案だ(笑)。
松原「結構だ」というけれどだれも作らない(笑)。
ガラスのなかった昔、銅の鏡に観音さまか仏さまのお顔を彫って、顔を映すと同時にお顔を拝み、心の内外の修正をしました。こんな掛け仏をつくればいい、これなら狭い団地でも問題ないとも言っているのですが、だれも実行しません。
本誌家の中にそうしたものが全くなくなってしまいましたね。。日本人の家庭は全く無宗教になってしまいました。
近代的な便利な世の中になればなるほど、心の寄りどころになる“形”が必要だと思うのですが、その“形”がなくなってしまいました。もちろん“形”がなくなっても心を持てればいいのですが、日本人は“形”がまずあって心がそれに入るという民族です。“形”を失うと頼りなくなります。
まして、「形式が内容を決定する」という考えが正しいとすれば、日本人はいまやいつまで経っても内容をもてないのではないか。そんなことすら案じられるのですが、飯塚先生、いかがですか。
飯塚おっしゃる通りです。ユダヤ民族などものすごく信仰心が厚いです。彼らは、旧約聖書にあるように若いものは全部奴隷としてエジプトに連れてゆかれ、故郷には老婆しか残らないといった苦難を度々経験していますが、日本人はそんな民族的な苦難は経験していないと思うのです。そこにまず大きな原因がある。
もう1つは、周りが海だから、簡単に逃げられない。自然に考えることが徹底を欠く。
そうした事情から日本人は段々物質万能になってきて、伝統的な文化を尊重する気配さえなくなってきています。これは大変です。
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