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(写真出典:飯塚毅先生追悼集『自利トハ利他ヲイフ』386頁)
教育の根底に“宗教的心情”を-7
もがき抜いた果てに……
飯塚大徳寺の開山大燈国師は、若い時に竹をそいで自分の子を刺し殺して火にあぶっているところを帰ってきた女房が見て泣きわめいた。彼はそのまま出奔して後に偉い坊さんになった。そういう古い記録を呼んだことがあります。
本誌ほう。本当ですか。
松原ええ、本当と承っています。
しかし、そうしたドロドロのものももってこそ人間は伸びられるのです。そうでなく、キレイごとだけだったらひ弱いもので終ります。
京都五山の1つである東福寺の開山、聖一国師にしても、叡山の天台宗との妥協をはかって禅密兼学としました。それがあったからこそ大燈国師が出たのです。日本臨済宗の創始者、栄西禅師もそうです。そのおかげで道元禅師が出ているのです。
飯塚おっしゃる通りです。
その意味で、先生の『父母恩重経を読む』は、ドロドロしたものもすくいあげていますね。そこに私は感動するのです。
ドロドロした中でもがき抜いて悟ってゆく。それが本当の教育だと思うんです。ご本にも「蓮の花は泥の中から出てくるではないか」とありましたが、本当ですね。
松原いじめられても、だれにいじめられたかは口を割らない。そのマイナスをどうやってプラスに転じてゆくか。そこをいまの若い人は解決しようとしない。
なぜそうなるか。それは、自分という個が宇宙全体の中でどういう位置を占めているのか、そういうことをだれも教えてくれないし、考えようとしないからです。
飯塚うむ。
松原網の目を例にとれば、今の若い人は自分ひとりが網の目だと思っている。しかし、網の目にはちゃんと隣りがある。そして全体が自分の中に凝縮されている。いろんなかかわりあいが集まって自分がある。それがわかると「おかげさまで」という最高の言葉のもつ意味もわかるのですがね。
そういう宇宙全体の中の自分の座標軸をつかむことが必要です。
飯塚その通りです。
ドイツの思想家シェーラーも“Die Stellung der Menschen im Kosmos”という本を書いています。
本誌先生も小さい時にいじめられたというお話でしたが、今のいじめる側、いじめられる側双方になにかお言葉を頂けませんか。
松原大人になってもいじめの世界はあるんですよ。たとえば、嫁、姑の問題だってそうでしょう。だから、子どもの時にそれに耐えておくことです。人間はもまれて成長するんです。ただ現在のことについてちょっと不安があるのは、いじめが陰湿化していることです。
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