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東洋思想でいかに生きるかを問い直す-3

名物教授「偉大なる暗闇」の薫陶

中村実は私も間接ながらドイセンの影響を受けています。

本郷時代の旧制一高に岩元禎という名物教授がおられましてね。漱石の『三四郎』に出てくる「偉大なる暗闇」広田先生のモデルと聞いています。独身で酒屋の2階に住み、給料はそこの主人が受け取りにゆく。嫌いな学生が来ると、自分で「岩元は留守じゃ。帰れ帰れ」と(笑)。

「プラトンより下は岩元に至るまで、その間にたまたまカント、へーゲルの介在するあり」といわれる超人的な教授でした。

飯塚ハッハッハ。

中村私が習った時は「岩元哲学はいま崩壊期にあり、再建するために」とドイセンの『形而上学綱要』を訳しておられる最中でした。

試験になり、私は仲間の要望に応えヤマをかけてうまくゆきました。ところが点数発表になると、真先に「中村君、30点」と落第点です。後に哲学にいった連中も同様でした。

恐る恐る先生にお伺いをたてると、「お前ら小僧は自分の言葉で書くものじゃない。わしが言う通りに書け」と。

飯塚岩元語で書けと(笑)。

中村そうです。東大の井上哲次郎先生あたりから哲学の用語は決まっていたので、私らはそれに従って答案を書いたのですが、岩元先生はそんなのを無視して独自の用語で講義しておられた。「それではドイツ語で答案を書いても構いませんか」とさらにお伺いをたてると、「それは構わん」と。

飯塚うーむ。

中村卒業を前にした3学期の試験が来ました。仲間は「1つに絞って山をかけろ」と乱暴なことを言う。那須の与一の心境で山をかけましたら、それが当たりましてね。みな無事に卒業できました。その連中が偉くなっていて、さっきの財団をつくる時、応援してくれました。

飯塚素晴らしい話だなあ。だから、先生はドイセンの影響を受けておられると……。東西思想の比較究明という大きな仕事の萠芽が既に出ていますね(笑)。

比較思想学会の誕生

中村その後、西洋哲学はわが国で独自に発達しましたが畢竟向こうの哲学者の翻訳であり、一方東洋哲学の先生は古典の講読が中心です。しかし、いろんな思想が周囲をとり囲むという状況になりますと、選択を迫られる。嫌でも応でも自分の目で見、自分の頭で考えなければならない。そこで私は比較思想ということを唱えたのです。

飯塚なるほど。

中村その説を岩波全書で出しました。岩波さんは最初は嫌がっていましたね。そういう本は売れないから(笑)。そのうち、金沢のお医者で松尾宝作さんという医学博士が熱心で、「ひとつ集まって評議しようじゃないか」ということになり、10人ほどの仲間で比較思想学会が出来ました。16、7年になりますが、いまでは会員は1,000人を超えています。東西の思想を対決させ、ゆくべき道を見出す――そういう方向を考えています。

飯塚日本人だけの問題ではありません。西の連中も東の知恵を求めており、先生はむしろ向こうで有名ですね。英文の論文を拝見したことがあります。

中村恐れ入ります。下手な英語でも、書いておけば読んでくれます。

飯塚いや、分かりやすいですよ。

中村外国人による英文だから分かりやすいのでしょう。英語で育った人だと、凝った文章を書こうとして、却って分かり難くなることがあります。

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