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東洋思想でいかに生きるかを問い直す-7

「存在が意識を規定」は同義反復

飯塚マルクスの理論を検討していてぶち当たったのは、存在が意識を規定するのであって、意識が存在を規定するのではない、という有名なテーマです。では言語はどうか。マルクスはお釈迦様と同じなんですが、言語というものは物質的なものであるという。

中村客観化されたものである、という意味でですね。

飯塚人間の通常の意識は言語を媒介にしなければ成立しない。とすると、言語はすでに、マルクスの言葉で言えば物質的なるものに該当する。

すると、存在が意識を規定すると言っているが、それはトートロジー(同義反復)に過ぎない。物質的なものが物質的なものを規定するというだけのことですからね。そとにマルクスの唯物史観の崩壊点があると私は見、いろんな機会にそれを強調して来ました。

中村私はマルクス主義を正式に勉強したことはありませんが、私の青年時代――昭和初年――、学生はみなマルクス、マルクスで、こっそり彼を読み、マルクス主義は真理の代名詞のように言われていました。その時熱心だった連中が、後に高裁長官になったり、自民党の大臣になったり(笑)。

本誌亡くなった大宅壮一さんに言わせると、あれはハシカで、かからないのはむしろ駄目なんだと(笑)。

中村なるほど。そういう面もありますね。

飯塚昭和15年、私は東北大学から選ばれてマニラで開かれた大学生の会議に出ました。その時、マ二ラでマルクスの『Das Kapital』を手に入れ、持って帰ろうとしたのですが、台湾の高雄の税関で見つかりましてね。逮捕されそうになりました。

中村『資本論』の原書ですね。

飯塚そうなんです。当時は禁書でした。後に立教大学の総長になり、また美濃部さんと都知事を争った松下正濤さんが団長として同行していて、「我々は政府から派遣された学生団だ。逮捕するなら団を解散してからやってくれ」と談じこんで下さって私は放免されました。

クロポトキンの「相互扶助」を見直す

本誌ソ連も社会主義の衣を脱ぎ、市場主義経済に向かおうとしています。すると、革命前のロシアの「地」が表に出てくるのではないかと思います。革命前のロシアの思想について、先生はご関心がありませんか。

中村その方については何も勉強しておりませんが、もう少し勉強したいと思っているのはクロポトキンの思想ですね。

彼はご存じのように人間の性は善という立場で相互扶助を唱えました。動物の中にも相互扶助がある。まして人間が相互扶助の組織を樹立できないはずはないと説きました。

飯塚彼の『一革命家の思い出』を読むと、革命前のロシアがいかにむごい社会であったか、よく分かりますね。

中村そうです。だからこそああいう革命が現れた。日本に革命が現れないのは事情が違うからです。

飯塚違いますね。フランスも王朝時代の圧政はすごかった。エドマンド・バークの『フランス革命論』を読むとよく分かります。

中村あれをお読みになりましたか。

飯塚イギリスにはそのような圧政はなかったですね。

中村あの国は具合の悪いことがあっても常識でなんとなく解決します。

飯塚公認会計士の国際会議で、私の隣が英国の公認会計士協会の会長で、ナイトの勲章をつけていました。「ご先祖が貰ったのですか」と訊ねると、「とんでもない。自分が貰ったんだ。エリザベス女王から直接つけてもらった」と。功績のある者は階級のいかんを問わず王室が顕彰する。『一革命家の思い出』に描かれたロシアとは大違いです。

ソ連に行ってモスクワとかレニングラードのホテルに泊まると、ほとんど、それはかつての貴族の館で、豪華なものです。

中村美術館もそうですね。帝政時代のコレクション……。

飯塚世界一といわれますね。その圧政社会を何とかせねばというので現れた革命前のロシアの思想を、ソ連人があらためて見直すべき時代が来ていまず。革命後のソ連で「社会改良家」として軽く片づけられてきたクロポトキンはその代表的な1人ですね。

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